今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

川中島の合戦で捏造された「戦いに勝った証し」とは

 コロナ禍が長期化し、全国各地のお祭りやイベントの多くが延期や中止、縮小を余儀なくされている。戦国武将、武田信玄(1521~73)の命日(4月12日)にあわせて開催される山梨の春の風物詩、甲府市の「信玄公祭り」も10月下旬に延期された。信玄の好敵手、上杉謙信(1530~78)の地元、越後・春日山新潟県上越市)で毎年8月下旬に開かれている「謙信公祭けんしんこうさい」は縮小され、川中島に出陣する越後軍団の武者行列などは2年続けて行われない予定だという。

 残念だが仕方ない。今年は信玄の生誕500年という節目の年だけに、節目の祭りは命日より誕生日(11月3日)にあわせて行う方がふさわしいかもしれない。

史料によって大きく異なる合戦の記録 

 信玄と謙信が信濃北部の領有権を巡って激突した川中島の合戦は、天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで12年にわたって続いたといわれる。特に永禄4年(1561)の合戦は最大の激戦となり、信玄も謙信も合戦直後から自軍の勝利を喧伝けんでんしている。負けを認めたとたんに求心力を失う戦国武将として当然の振る舞いではあるが、勝者がはっきりしないもうひとつの理由について取り上げた。

読売新聞オンラインのコラム本文

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 互いに「勝った」というだけならよくある話ともいえる。しかし、主な戦いだけで5回あったとされる川中島の合戦については、武田方の史料『甲陽軍鑑』と上杉方の史料『川中島五箇度合戦記』(『合戦記』)の時期や経緯がことごとく異なっている。f:id:maru4049:20210812231518j:plain

一騎打ちは原野で?川の中で?

 『甲陽軍鑑』は「啄木鳥きつつきの戦法」や「車懸くるまがかりの戦法」を永禄4年の第4回合戦での出来事とするが、『合戦記』では第3回合戦の出来事となっている。最大の違いは信玄と謙信の一騎打ちで、『甲陽軍鑑』では第4回合戦に八幡原はちまんぱらで行われ、信玄が軍配で謙信の太刀を受け止めるが、『合戦記』では第2回合戦のシーンとされ、信玄と謙信は御幣川おんべがわの中で、ともに馬上で太刀を交わしたことになっている。

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信玄・謙信の一騎打ちを描いた錦絵の陸上版(『大日本歴史錦絵』国立国会図書館蔵)

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信玄・謙信の一騎打ちを描いた錦絵の水中版(『大日本歴史錦絵』国立国会図書館蔵)

 『合戦記』はわざわざ「一騎打ちが第4回合戦で行われたという甲陽軍鑑の記述は誤りだ」と記しているから、どうやら『合戦記』は先に世に出た『甲陽軍鑑』を読んで書かれたようなのだが、両雄が一騎打ちをした可能性がある最大の激戦は、『甲陽軍鑑』が記す通り、第4回合戦だったことはほぼ間違いない。なぜ『合戦記』は虚偽とみられる経緯を強調したのだろう。

 上杉方の合戦記は誰が書いたのか

 『合戦記』は武田家の遺臣が書き留めた記録を上杉家の家臣が慶長10年(1605)編纂へんさんしたと伝わるが、実は『合戦記』を書いたのは上杉家の人間ではない。そのことは、平成4年(1992)に和歌山県の旧商家から『川中島合戦図屏風びょうぶ』(紀州本)が見つかり、当時和歌山県立博物館の学芸員だった高橋修さんが、屏風が描かれた経緯を綿密に調査した結果、明らかになった。高橋さんは自らの調査結果を『異説 もうひとつの川永島合戦』(洋泉社)にまとめている。

 高橋さんは同署の中で、『合戦記』を書いたのは、『川中島合戦弁論』という上杉方の軍記の中で『甲陽軍鑑』を批判している「大関定祐」なる人物であり、大関定祐は紀州藩お抱えの軍学者、宇佐美定祐さだすけ(1632?~1713)と同一人物であることを突き止めた。では、この宇佐美定祐とはどんな人物だったのだろう。

紀州藩の軍師がなぜ上杉の軍記を書いたのか

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徳川頼宣和歌山県立博物館蔵、Wikipedia

 宇佐美家に残る史料によると、宇佐美定祐の父、勝興かつお(1590~1647)は「謙信の軍師、宇佐美定行の孫で、越後流軍学を極めた軍学者」だったという。勝興は上杉家の軍師の子孫だと称して初代紀州藩主の徳川頼宣よりのぶ(1602~71)に近づき、息子を紀州藩軍学者にねじ込んでいた。屏風絵は頼宣が発注し、定祐が監修したものだった。つまり、『合戦記』をはじめとする上杉方の軍記は、勝興と定祐の親子が『甲陽軍鑑』を否定するために描いたフィクションであり、紀州徳川家がその後ろ盾となっていたというわけだ。

 『甲陽軍鑑』の写しを手に出奔、定行の子孫名乗る

  それでも、謙信の家臣の子孫が書いたなら、『合戦記』にも幾分かの史実が含まれている可能性はある。だが、定行には子がなく、宇佐美勝興は定行の孫、というのもフィクションだった。では、勝興はいったい何者なのか。

 紀州宇佐美家に残る系譜では、勝興は越後藤井藩(新潟県柏崎市)の領主だった稲垣重綱(1583~1654)に仕官して大坂の陣にも参戦し、紀州に来る前は尾張水戸徳川家に仕えたことになっている。だが、『甲陽軍鑑』を編纂した小幡景憲おばたかげのり(1572~1663)の弟子が残した記録によると、勝興はもともと武士ではなく、藤井藩お抱えの料理人の子だったという。

 信玄の甲州流軍学に心酔していた重綱は、景憲が編纂中だった『甲陽軍鑑』の筆写を熱望し、物書きに堪能な小姓を選んで写し取らせた。だが、筆写を終えるとこの小姓は稲垣家から消え、ほどなくして京の版元から、景憲に無断で『甲陽軍鑑』が出版された。小姓が無断で筆写したうちの1部を版元に売って大金をせしめたらしいのだが、その小姓の名前こそ、若き日の宇佐美造酒助勝興だったのだ。

頼宣は本当に勝興に騙されたのか

 徳川御三家の一角である紀州藩の頼宣は、おそらく勝興の出自が怪しいことにうすうす気付いていたはずだ。にもかかわらず、なぜ越後流の軍学者を採用したのか。高橋さんの推理とともに、その背景はコラム本文に記したのでお読みいただきたい。

読売新聞オンラインのコラム本文

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 ともあれ頼宣が虚偽の上杉流を積極的に後押ししたことで、美術史的には一級品とされる合戦図屏風が誕生したのだが、「戦いに勝った証し」が登場したことで、もともと不明な点が多かった川中島合戦の勝敗はますます不明確になってしまった、というのが私の結論なのだが、どうだろうか。いずれにしても、為政者の「戦いに勝った証し」というのはえてして信用できない。いうまでもなく、今につながるのは東京オリンピックの意義である。

 

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