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読売新聞編集委員  丸山淳一

「光秀は本能寺にいなかった」新説の講演を聞く

 天正10年(1582年)6月2日、明智光秀(?~1582)が主君の織田信長(1534~82)を討った本能寺の変について、金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する『 乙夜之書物いつやのかきもの』という書物から、これまでの常識を覆す記述が見つかった。この記述を見つけた富山市郷土博物館主査学芸員萩原はぎはら大輔さんが富山市で行った「読売・TDBフォーラム北陸」での講演内容を紹介している。

講演する萩原さん(3月7日、富山市で)

読売新聞オンラインのコラム本文

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『乙夜之書物』はどんな書物か

 『乙夜之書物』は、加賀藩に仕えた兵学者、関屋政春(1615~85)が見聞した524のエピソードが記されている。このうち本能寺の変に関する記述は、政春が加賀藩士から聞いた「また聞き」ということで、その内容はこれまでほとんど注目されていなかった。

 だが、政春に本能寺の変の話をした井上重成は、実際に本能寺を襲撃したおじの斎藤利宗(1567~1647)から話を聞いている。しかも利宗の父は、変の直後から「今度謀反随一也」とみられていた斎藤内蔵助利三くらのすけとしみつ(1534~82)だ。後世に残りにくい「負け組の資料」という点でも大変貴重な史料だと思う。「変の当日、光秀は本能寺にはおらず鳥羽にひかえた」という私の説が昨年大きく報じられたが、他にも注目すべき内容がある。

斎藤利三(左)と 斎藤利宗(いずれも『太平記英勇伝』東京都立中央図書館蔵)

謀叛は延期されてきた?

 利三は変の前日の6月1日昼に亀山城に入るが、『乙夜之書物』には、到着した利三を城の式台(玄関)で出迎えた光秀が、城内の 数寄屋すきや(茶室)に明智軍の首脳を集めて謀反を打ち明け、誓詞血判を取ったとある。利三は光秀に対し、「これまで謀反をずっと延期してきた。先鋒せんぽうは私が務める」と話したという。

 当時、形の上では織田家の当主は信長の嫡男の織田信忠(1557?~82)だった。信長と信忠をセットで殺さないと光秀の謀反は成功しない。信忠が急きょ6月1日の宿泊先を堺から京(妙覚寺)に変更し、京都で信長・信忠父子をともに討つことが可能になってはじめて。光秀は謀反を決断したのだろうが、「謀反を延期してきた」という利三の発言が事実なら、光秀と利三はかなり前から信長を殺す機会を虎視眈々こしたんたんと狙っていたことになる。

光秀軍は余裕をとって本能寺に向かった

 『乙夜之書物』には「朔日(1日)ノ暮前」に光秀軍が亀山城を出発したとある。6月1日は今の暦なら7月2日。京都の日没は夜7時過ぎで、光秀はまだ明るいうちに亀山城を出たことになる。

 進軍ルートについてもいくつかの説があるが、おそらく間道などを使わず、山陰道を進んだのだろう。6月1日の夜は新月で、松明たいまつ をともして大軍が街道を進めば目立ってしまうが、信長に中国出陣の閲兵を受けるなら、行軍を隠す必要はない。堂々と街道を進んだ方がかえって怪しまれないと考えたのではないか。

 『乙夜之書物』には「光秀軍は夜中に桂川に至り、休息をとった」という記述もある。梅雨時にもかかわらず桂川も順調に渡れたため、河畔で時間調整をしたとみられる。時間調整をしたのは、最初から夜明け前に本能寺を襲撃することを決めていたからだと思う。

光秀は「敵は本能寺にあり」とは言っていない

 休息中に物頭(部隊長)が騎馬で、「(これから)本能寺に取りかくる(攻め込む)ぞ、おのおのその心得えつかまつるべし」と触れ回っている。有名な「敵は本能寺にあり」は、光秀が発した言葉ではなかった。光秀は「本能寺を攻める」とだけ触れさせて、誰を攻めるかは伏せていた。この段階で「本能寺の信長を討つ」と伝えたら兵卒が動揺すると考えたのではないか。

 休息の後、明智秀満と利三が率いる先鋒隊の2000余騎が本能寺に向かっている。先鋒隊を騎馬隊にしたのは、桂川河畔から本能寺までを短時間で行くためだろう。

明知光秀(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

光秀が鳥羽に控えた理由

 『乙夜之書物』には「光秀は鳥羽に控えた」とあり、桂川で先鋒隊と別れ、本能寺に行かなかったとある。この記述については「光秀は山崎の戦いの前に下鳥羽に本陣を置いており、利宗の記憶違いではないか」「信長が本能寺から脱出できたら安土に逃げるはずで、南の鳥羽に本陣を置くのはおかしい」という反論が出されているが、「鳥羽に控えた」のは、万一信長を討ち漏らした時のことを考えていたのではないか。

 信長はこの時安土にまとまった兵力を残していない。一方、大坂にはこの時、信長の三男、織田信孝(1558~83)の四国攻めの軍勢が集結していた。先鋒隊が信長を討ち漏らせば大坂に逃げ、信孝軍と合流する、と光秀が読んで、鳥羽に本陣を置いたとすれば、それは必ずしも愚策とは言えない。

 『乙夜之書物』などから見えてくるのは、本能寺の変信長と信忠をセットで殺し、織田政権の政治中枢だった安土城を掌握することを目指した大規模なクーデターだったということだ。本能寺の信長襲撃は一連のクーデター計画のその一部にすぎず、おそらく30分程度で終了している。私は「変」というより「惟任これとう光秀の乱」と呼ぶべきだと思う。

 ここまでが萩原さんの講演の要旨だ。筆者との対談や筆者が追加取材した内容も含め、内容は再構成している。詳しい講演の内容はコラム本文をお読みいただきたい。

なぜ信長は本能寺に宿泊したのか 

 それにしても、百戦錬磨のはずの信長は、なぜ防御が手薄な本能寺に泊まり、謀反の好機を与えてしまったのか。奈良大学教授の河内将芳さんは『宿所の変遷からみる 信長と京都』のなかで、信長の上洛には「必ずといってよいほど『禁中』(内裏、禁裏)に関わることがらが関係するようになっていた」と指摘している。信長は朝廷に必要以上に関わろうとせず、京に堅固な拠点を設けずに本能寺や妙覚寺を宿所とした。それがあだになった。

 大山崎町歴史資料館館長の福島克彦さんによると、元亀4年(1573年)に信長は京都の要害・吉田山に城構えの「京都屋敷」の築造を検討したが、実地調査などの結果、築城は見送られている(『明智光秀』)。京都に長居はしないから、と考えたのだろうが、吉田山築城を強く勧めたのは、ほかならぬ光秀だった。京都は決して安全ではない、という光秀の提案に信長が従っていれば、本能寺の変は起きなかったかもしれない。

 「光秀は変の当日、本能寺におらず鳥羽にいた」とする萩原さんの新説については、別のコラムでも取り上げているのでお読みいただきたい。

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