今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

退却を進言した家康を置き去りに?「金ヶ崎の退き口」の真実

 読売カルチャーセンター公開講座で取り上げた話の中から、時間内で話しきれなかったテーマを再録・補足する第2弾は、元亀元年(1570年)の織田信長(1534~82)による越前(現在の福井県)朝倉攻めについて取り上げる。越前攻めは信長の義弟、浅井長政(1545~73)の裏切りによって失敗し、NHK大河ドラマ『どうする家康』の4月16日放送回でも描かれた「金ヶ崎の退き口」、そして姉川の合戦につながっていく。

朝廷も将軍も了承済みだった越前攻め

 室町幕府の15代将軍・足利義昭(1537~97)を擁して上洛した信長は、各地の大名に上洛を求めた。将軍への忠誠を誓わせることで「天下静謐」を図ったわけだが、越前の朝倉義景よしかげ(1533~73)はこれに従わなかった。信長はこれを理由に3万余の軍勢で越前に攻め込んだ。朝廷や幕府もこの戦いを承認済みで、遠征軍には摂津(現在の大阪府)守護の池田勝正(?~1578?)や幕臣だった大和(現在の奈良県)の松永久秀(1508~77)も加わっている。

足利義昭等持院/足利将軍像 出典: ColBase ( https ://colbase.nich.go.jp/)

 義景は将軍になる前の義昭を2年にわたって保護した恩人だった。にもかかわらず義昭が越前攻めを承認したのは、軍事行動が「悪逆を企てる若狭(福井県)の若狭武田氏の家臣、武藤友益ともます(生没年不明)を討伐する」名目で始まったためだ。とはいえ、武藤討伐に3万もの大軍は必要ない。最初から「武藤を攻めたところ、背後で義景が操っていたことが分かった」といった理由をつけて、標的を越前に切り替えるつもりだったのだろう。

破竹の勢いで金ヶ崎城を落とす

 織田軍を主力とする征討軍は4月25日から26日にかけて、天筒山城に続いて金ヶ崎城を攻める。天筒山城では朝倉郡の頑強な抵抗にあうが、金ヶ崎城はあっさり降伏・開城した。義景が長政と連携して織田軍を挟み撃ちにするには、信長を金ヶ崎に引きつけておく必要があったため、敗北を偽装したとの説もある。

金ヶ崎古戦場(福井県敦賀市

 だが、金ヶ崎城の守将だった朝倉景恒(?~1570)は他の一門衆から「不甲斐無し」と非難され、事実上失脚している。金ヶ崎開城の背景には朝倉氏一門衆の序列をめぐる争いがあるとされる。朝倉軍には足並みの乱れがあり、勢いに乗る討伐軍は破竹の勢いで大勝できるはずだった。

 順調に見えた戦況が一変したのは26日。思いがけない知らせが入る。

 「長政が信長を裏切った」

 はじめ信長は「虚説たるべき」(『信長公記』)と信じようとしなかったが、次々に入る知らせに事実と認めざるをえなくなり、一転して撤退を決意する。

小豆袋の逸話は後世の創作だが…

 信長が長政の裏切りを察知した経緯について、『朝倉家記』には、長政の妻のお市の方(1547~83)が兄の信長に袋の両端を縛った「小豆の袋」を送って、挟み撃ちの危機を伝えた、という有名な逸話がある。『どうする家康』では小豆の袋は浅井氏の家臣にみつかり、信長には届かなかったものの、市に拾われて侍女として仕えた「阿月」が小谷から金ヶ崎まで10里(40キロ)以上の山道を走って危機を伝えたことになっている。

お市の方(『国史大図鑑第3巻』国立国会図書館蔵)

 そもそも小豆袋の逸話は後世の創作とされ、阿月については今回の大河ドラマのみのストーリーだ。しかし、政略結婚で実家から婚家へと送り込まれた女性が実家に情報を伝えることは珍しいことではなかった。信長の正室となった帰蝶(生没年不明)についても、美濃の斎藤家に織田家の情報を送っていた逸話が残っている。お市の方が、長政の裏切りを知って何らかの形で伝えようとした可能性はゼロではない。

警戒されていた長政の裏切り

 『朝倉記』は近江(滋賀県)の外交・諜報を行っていた久秀が浅井方の不審な動きに気づいたと記し、明智光秀(?~1582)は越前攻めの陣中から、京‘の将軍御所に「越州(朝倉)と北郡(浅井)の動向を警戒している」とする書状を送っている(「三宅家文書」)。お市の方からの情報がなくても、長政については離反の恐れありとする見方があったことがうかがえる。

 長政は、六角氏から離反した際に義景に臣従し、信長の上洛時には信長とも同盟して事実上の臣下になったとされる。義景と信長が対立した結果、いずれかとの従属関係を破棄する必要に迫られ、義景についたとする説もある。

 信長が長政との盟約締結時に交わした「朝倉を攻める時は必ず事前に相談する」という取り決めを守らなかったことが離反を呼んだという見方も、朝倉との関係重視説のひとつだろう。

浅井長政(左、『絵本石山軍記』国立国会図書館蔵)と朝倉義景(『(真書太閤記重修』同)

 この関連では、長政の父、久政(1526~73)が朝倉氏との同盟関係を重視し、長政に信長を裏切るよう迫った」というストーリーが語られるが、久政の時代に浅井・朝倉の同盟関係が強固だったわけではない。朝倉と浅井が同盟関係にあったことは間違いないが、長政の裏切りには対朝倉氏以外の理由があったかもしれない。

朽木元綱は信長を歓待した

 越前に攻め込む際に通った琵琶湖西岸ルートには浅井軍がいる可能性があるため、より西側を通る「朽木くつき越え」で京に撤退した。朽木谷を支配していた朽木元綱(1549~1632)は信長を歓待した。『朝倉記』には、元綱は当初信長を殺すつもりでいたが、久秀が説得して翻意させたとある。元綱は浅井氏に一時服属したが、当時は対立していた。その一方で元綱は、三好長慶(1522~64)に京都を追われた13代将軍・足利義輝(1536~65)を朽木谷に匿ったこともあり、将軍家との関係が深かったから、当初信長を殺すつもりだったとは考えにくい。

 ともかく、朽木谷を越えた信長は金ヶ崎から3日かけて無事に京に帰還した。出発時にはきらびやかに着飾って3万の兵を率いていたが、『継芥記』によると、帰還時には10人程度の従者しかいなかったという。

人が好すぎた信長

 信長は無事帰還したものの、長政の離反によって反信長勢力は公然と信長に反旗を翻し、畿内では「元亀の争乱」と呼ばれる戦乱に火が付く。長政の離反は「信長の天下統一を10年遅らせた」といわれる所以だが、上洛直後に京や領国をがら空きにして越前に遠征すること自体、見通しが甘いと言わざるを得ない。信長は慎重にみえて、掌中にした将軍の権威を信じ、政略結婚による同盟の効力を過大に評価する人の好さがあった。

 『三河物語』によると、金ヶ崎城が開城したのと同じ日、徳川家康(1542~1616)が信長に退却を進言したが、信長は答えなかった。そうしておいて信長は、家康に何も知らせず自身はさっさと撤退し、家康は事実上の殿しんがりを努めるはめになったという。

殿軍の司令官は秀吉でも家康でもなかった

 撤退にあたって、信長は金ヶ崎城木下藤吉郎秀吉(1537~98)を入れ、殿を任せた。この時、秀吉が自ら名乗りをあげたというのが通説だが、殿軍でんぐんには摂津(大阪府)守護の池田勝正や光秀がおり、実際に殿軍を指揮したのは勝正だったとみられる。殿軍は金ヶ崎城に籠城せず、防御に適さない金ヶ崎城を捨てて国吉城まで退いて敵を防いだという見方もある。

 『徳川実紀』などでは家康も殿軍に加わったとしているが、一次史料には家康の名はない。そもそも、家康は越前攻めに参加していないという見方もある。また、岬に近い金ヶ崎から信長が船で若狭に逃げたという仮説を唱える研究家もいる。「金ヶ崎の退き口」については諸説あることが多い。

 いずれにしても殿軍は朝倉軍につけいる隙を与えず、被害を最小限に食い止めた。織田軍の被害については、「人数崩れけれども宗徒の者どもつつがなし」(『朝倉家記』)から、「人数二千余も損歟ノ由」(『多聞院日記』)まで諸説ある。

朽木越えより危険だった千草越え

 京まで帰り着いた信長だが、京から領国の岐阜に帰るにも苦労している。中山道は通れずに東海道の間道(千草越え)で岐阜に戻るが、途中で待ち伏せしていた杉谷善住坊(?~1573)に銃撃され、九死に一生を得る。

姉川の戦い(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

 いったん三河に帰った家康はすぐに信長からの出陣要請を受けて姉川の戦いに向かう。金ヶ崎の敗戦は信長、家康の新たな苦難の始まりでもあった。

 

 

 

 

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