今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞編集委員  丸山淳一

過去の失敗作「アマビエ」が今、脚光を浴びる理由とは

  

 新型コロナの感染拡大が長期化する中、予言する妖怪「アマビエ」が大人気だ。人魚のようなウロコと長い髪、鳥のようなくちばしを持つ3本足の妖怪で、江戸時代に肥後(熊本県)の海に現れて疫病の流行を予言したという。

 アマビエはむろん想像の産物だが、この得体のしれない妖怪が登場した時代背景を知りたくなった。ブームが起きる前から、地道にアマビエを調べていた研究者にも取材した。

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  •  予言獣の“先輩”の元ネタとは
  • 創作者は江戸の瓦版職人か
  •  深海魚か、中国の猿の妖怪か
  • アマビエは何を予言したのか
  • 失敗作だったアマビコ
  • 成功していれば今の流行はなかった?

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           肥後国海中の怪(アマビエの図)』(京都大学附属図書館所蔵) 

 肥後の海中が毎夜光るため役人が見に行くと、図のような者が現れ、「私は海中に住むアマビヱという者だ。今後6年の間、諸国は豊作だが、あわせて病が流行する。早く私の写し絵を人々に見せなさい」と告げて海中に戻った。これが役人から江戸に送られてきた写しだ 弘化3年4月中旬

 アマビエの絵の説明文は上記にように書いてある。だが、役人が検分したという大騒ぎの伝承が、肥後には一切残っていない。弘化3年(1846)に疫病が流行した形跡もない。奇談の発信源は、どうやら熊本ではない。

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スターリンの犯罪 シベリア抑留と終戦工作の接点

 全国戦没者追悼式がコロナ禍の中で開かれた。節目の「終戦の日」だからこそ、8月15日の恒例行事の意義を再認識することが大事だと思う。

 「終戦の日」は第2次世界大戦の戦闘がんだ日ではない。昭和20年(1945年)8月9日に旧満州中国東北部)に攻め込み対日参戦したソ連は15日以降も軍事行動を止めず、18日未明には千島列島の北端、占守しゅむしゅ島でソ連軍と日本軍守備隊が「開戦」している。

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  • 「日本人将兵50万人を捕虜に」…スターリンの極秘指令 
  •  国際法に明確に違反
  • 勝算ないまま登場したソ連仲介案
  • 近衛の交渉方針に「労務賠償やむなし」
  • 和平斡旋の答えは宣戦布告
  • 北海道占領断念翌日 スターリンの豹変

「日本人将兵50万人を捕虜に」…スターリンの極秘指令 

 ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン(1878~1953)は占守島から南下し、北海道の北半分を占領する野望を抱いていた。陸軍中将・樋口季一郎(1888~1970)は独断で「断乎反撃せよ」と命じた。

 守備隊の奮戦で出端ではなくじかれたスターリンが、北海道占領を断念せざるを得なくなった経緯は別のコラムで紹介している。

 占守島では8月21日に停戦協定が成立し、日本兵は23日に武装解除する。だが、スターリンはこの日に、「日本人将兵50万人を捕虜とせよ」という極秘命令を出した。

 千島だけでなく、旧満州や朝鮮、樺太などにいた日本人57万5000人がシベリアの収容所に強制連行された。その1割にあたる約5万4000人が極寒の中、過酷な労働や食糧不足で死亡したとされる。

   

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施しから棒引きへ…徳政史の変遷と令和コロナ徳政

 新型コロナ感染拡大を受け、国や自治体が中小企業支援策の拡充に踏み切っている。ただ、営業時間の再短縮や休業(自粛)を求められた店の多くからは「月で最大20万円程度の協力金では足りない」という声が出ている。

 倒産や廃業を食い止めるための思い切った支援策を「令和の徳政」と呼ぶらしい。名古屋市河村たかし市長は中小義業者向けの低利融資制度を「ナゴヤ信長徳政プロジェクト」と名付けた。

 ということで、過去に行われた「徳政」の歴史を振り返り、今につながる真の「徳政」とは何か、考えてみた。

読売新聞オンラインwebコラム本文 

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  • 「恩徳を施す仁政」から「借金棒引き」へ
  •  今川氏真の徳政令を凍結した井伊直虎
  •  将軍義昭の「代替わり徳政」も計画か
  • 幻の「徳政」と「天下」の意味

  

「恩徳を施す仁政」から「借金棒引き」へ

 広辞苑で「徳政」と引くと、①人民に恩徳を施す政治。租税を免じ、大赦を行い、物を与えるなどの仁政②中世、売買・貸借の契約を破棄すること――という二つの意味がある。もともと徳政には①の意味しかなかったが、鎌倉時代に出された永仁の徳政令によって②の意味が加わり、室町時代には徳政と言えば②の意味になった。

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永仁の徳政令を出した北条貞時(『柳菴随筆』国立国会図書館蔵)

 コラム本文では「徳政」が①の「人民への恩徳」から始まり、次第に②の「借金の棒引き」の代名詞となり、庶民の熱狂的に受け入れられた後、嫌われるようになった経緯を書いた。

 庶民の味方から敵になったのは、戦国時代末期からだと言われている。室町幕府は徳政令を乱発し、徳政令の手数料収入を得る「分一徳政令」まで出したが、織田信長(1534〜82)は天正5年(1577)に安土に出した楽市楽座令で、徳政は行わないと宣言しているが、この時期に一致する。すでにこのころは、庶民、特に新興商人の経済活動に徳政は邪魔と考えられるようになっていたのだろう。

 江戸時代になってからも困窮した旗本御家人に対する救済策が乱発されたが、徳政令という言葉は使われていない。松平定信寛政の改革で断行した徳政令と同じ借金の棒引きは「棄捐きえん令」と呼ばれた。

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信長も考えた?足利16代将軍・義尋の誕生

 乱世は後継者が次々と権力を奪う時代だ。当然、前任者の子孫はその地位を失う。だが、後継者は前任者と敵対していたわけではない。権力の簒奪さんだつには手順が必要になる。

 豊臣秀吉(1537〜98)は織田信長(1534〜82)の孫の三法師、のちの織田秀信(1580〜1605)織田家の後継に据えたが、岐阜中納言にとどめ、自らは関白になった。

 徳川家康(1543〜1616)は臨終の床に就いた秀吉に豊臣家への忠誠を誓いながら、嫡子の豊臣秀頼(1593〜1615)から天下を奪い取り、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした。 

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三法師を抱いて信長の葬儀に出席した秀吉(『大日本歴史錦繪』国立国会図書館蔵)

 秀吉はあの世で家康の裏切りにほぞをかんだだろうが、自分も秀信を冷遇した過去がある。秀吉と家康が、それぞれの嫡子から天下を簒奪したことは、多くの人が知っている。

  • 信長の権力掌握に手順はあったか 
  • 信長も義昭の子を将軍にしようとした?
  • 義昭も代替わりを意識していた
  • 官位が義昭を超え、安土に城割り
  • 将軍になれなかった義尋は
  • 世襲でない現代の継承の手順

信長の権力掌握に手順はあったか 

 では、信長はどうだったのか。東大史料編纂所画像史料解析センター准教授の黒嶋敏さんの近著『天下人と二人の将軍』を読んで、目からウロコが落ちた。

 信長は室町幕府15代将軍の足利義昭(1537〜97)を京都から追放して政権を奪ったが、義昭の命は奪っていないし、義昭に代わって将軍職に就いたわけでもないが、義昭には跡を継ぐべき嫡子がいた。その存在は三法師や秀頼ほど知られていないから、信長が嫡子から天下を簒奪したイメージもない。

 しかし、黒嶋さんによれば、信長も秀吉、家康と同じことをしていた。義昭の嫡男、足利義尋ぎじん(1572〜1605)は義昭の次の16代将軍に就くことが既定路線となっていた可能性があるというのだ。

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『麒麟がくる』8月再開!高橋英樹さん 大河と信長を語る

 新型コロナの影響で放送休止中だった大河ドラマ麒麟がくる』が8月30日から再開される。これまで大河ドラマ9作に出演した高橋英樹さんのロングインタビューを2回に分けて読売新聞オンラインに掲載した。

 高橋さんと言えば『国盗り物語』で演じた織田信長(1534〜82)が有名だが、前編では信長以外の出演作についてじっくりと語ってくれた。他では読めないインタビューだと思う。

 

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インタビューに答える高橋さん

 大河ドラマの秘蔵写真も多数ご提供いただいたが、権利許諾の関係でここでは公開できない。読売新聞オンラインwebコラム「今につながる日本史」でご覧いただきたい。

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大河9作に加え『坂の上の雲』も

 前編では大河ドラマのほかに、スペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもたっぷりお話が聞けた。視聴していて涙腺が崩壊した「そこから旅順港が見えるか―っ」「見えまーす!丸見えでありまーす」というシーンを思い出すが、あのシーン、実は…という話も。

【前編に登場する高橋さんが演じた人物】

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「暴れ川」「ダム」の歴史と令和の熊本豪雨

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決壊した球磨川と浸水した人吉市

 梅雨前線の影響で熊本県南部に記録的な大雨が降り、球磨川が氾濫した。支流に近い球磨村特別養護老人ホームが浸水し、土砂崩れも多発した。

 八代市人吉市では橋が流失し、多くの人が孤立した。死者・行方不明者は30人を超えた。大雨はまだ続きそうだ。私も熊本にいた時期、梅雨末期の大雨の猛威を経験した。被災された方には心からお見舞い申し上げるとともに、引き続き警戒するようお願いしたい。

  

  •  洪水常襲の「暴れ川」球磨川とは
  •  1200年続く水害との戦い
  • 清正が 築いた?遥拝堰
  • 「瀬戸石崩れ」を7日で復旧させた稲津弥右衛門
  • 昭和40年の大水害と市房ダム
  • 緊急放流がは見送られたが…
  • ダムが要るのか、ダム無しがいいのか

 洪水常襲の「暴れ川」球磨川とは

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球磨川流域図(国土交通省河川局『球磨川水系の流域及び河川の概要』)

 九州は梅雨末期になると毎年のように集中豪雨による水害が発生するが、7月4日未明から朝にかけては観測史上最多雨量を更新する猛烈な雨が降った。球磨川流域は急峻な山々に囲まれ、日本三大急流のひとつとされる。

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 上流の人吉・球磨盆地は、周囲を山に囲まれ、山間部に降った雨がすり鉢状の盆地に集まりやすい。中流域は山の間を流れ、川幅が急に狭まる「山間狭窄部」、つまり「ボトルネック」になっており、急に水位が上昇しやすい。下流八代平野扇状地を蛇行し、河口付近は干拓でできた海抜が低い土地で、堤防決壊や広範囲にわたる浸水が起きやすい。球磨川は上流、中流下流ともに、大雨が降ると一挙に「暴れ川」となり、流域のすべてで氾濫が起きやすく、ひとたび氾濫すると浸水被害は大きくなる。

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造船疑獄の指揮権発動は「政治史最大の汚点」なのか

法務大臣は、……検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる」「但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみすることができる」

 「法相の指揮権発動」に関する検察庁法14条の本文と但書きだ。個々の事件について法相は検察官を指揮することは許されないが、検事総長は指揮することができる。

 公職選挙法違反で逮捕された河井克行前法相は、わずか2か月とはいえ、指揮権を発動できる立場にいた。検察にとっては「元上司」の前代未聞の逮捕を受けて、昭和29年(1954)の「造船疑獄」で法相の犬養健(1896〜1960)が発動した指揮権について考えてみた。

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  • 政治史の汚点「抜かずの宝刀」に
  • 3人の「佐藤」が入り乱れ... 
  •  14条但書きの意味
  • 法相と前法相は歴史を学ぶべき

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吉田茂(左)と犬養健国立国会図書館蔵)

政治史の汚点「抜かずの宝刀」に

 指揮権によって当時与党・自由党の幹事長だった佐藤栄作(1901〜75)の逮捕が見送られたこの事件は、戦後政治史の一大汚点といわれた。指揮権発動はこれ以降も何度か検討されたが、「抜かずの宝刀」として封印されたままだ。

 だが、渡邉文幸さんの『指揮権発動』(信山社)によると、実はこの時の指揮権発動は、東京地検特捜部の暴走を抑えきれなかった検察首脳も望んだことだったらしい。コラム本文では後の当事者の証言などからその経緯や理由を記したのでお読みいただきたい。

 驚いたのは、佐藤幹事長の逮捕を暫時見送るよう指揮した指揮書の原案を書いたのが、指揮される側の検事総長、佐藤藤佐(1894〜1985)だったという証言があることだ。

 松本清張(1909〜92)が記した「指揮書は犬養の直筆だった」という話は「完全な誤り」だったことになる。指揮書はタイプで清書され、政府だけでなく検察首脳が一字一句をチェックしたものだったという。

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