今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

信長も考えた?足利16代将軍・義尋の誕生

 乱世は後継者が次々と権力を奪う時代だ。当然、前任者の子孫はその地位を失う。だが、後継者は前任者と敵対していたわけではない。権力の簒奪さんだつには手順が必要になる。

 豊臣秀吉(1537〜98)は織田信長(1534〜82)の孫の三法師、のちの織田秀信(1580〜1605)織田家の後継に据えたが、岐阜中納言にとどめ、自らは関白になった。

 徳川家康(1543〜1616)は臨終の床に就いた秀吉に豊臣家への忠誠を誓いながら、嫡子の豊臣秀頼(1593〜1615)から天下を奪い取り、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした。 

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三法師を抱いて信長の葬儀に出席した秀吉(『大日本歴史錦繪』国立国会図書館蔵)

 秀吉はあの世で家康の裏切りにほぞをかんだだろうが、自分も秀信を冷遇した過去がある。秀吉と家康が、それぞれの嫡子から天下を簒奪したことは、多くの人が知っている。

信長の権力掌握に手順はあったか 

 では、信長はどうだったのか。東大史料編纂所画像史料解析センター准教授の黒嶋敏さんの近著『天下人と二人の将軍』を読んで、目からウロコが落ちた。

 信長は室町幕府15代将軍の足利義昭(1537〜97)を京都から追放して政権を奪ったが、義昭の命は奪っていないし、義昭に代わって将軍職に就いたわけでもないが、義昭には跡を継ぐべき嫡子がいた。その存在は三法師や秀頼ほど知られていないから、信長が嫡子から天下を簒奪したイメージもない。

 しかし、黒嶋さんによれば、信長も秀吉、家康と同じことをしていた。義昭の嫡男、足利義尋ぎじん(1572〜1605)は義昭の次の16代将軍に就くことが既定路線となっていた可能性があるというのだ。

 

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足利義昭像(等持院蔵)

信長も義昭の子を将軍にしようとした?

 義尋は正室の子ではなかったが、そもそも義昭に正室はおらず、将軍家の後嗣として養育された。義昭が槇島城の戦いで信長に敗れて追放される際、義尋は人質として信長に預けられ、わずか1歳で出家させられている。

 しかし、公家はこの追放劇を室町幕府の滅亡とは見ず、「大樹(将軍)若公御上洛」と認識していたという当時の史料がある。信長が義尋を義昭に代わって16代将軍に擁立し、当面は幕府の存続を明確にした上で、時期を見て信長がその上位に立つ構想を持っていたとしてもおかしくない。

 義昭の引き取り交渉をしていた安国寺恵瓊えけい(1539?〜1600)が毛利氏に「義昭が京都からいなくなったからには、来年の新年のあいさつは義尋と信長にするべきだ」と伝えたという記録(『吉川家文書』)もある。信長だけでなく、義尋を挨拶の相手に加えているのが興味深い。

 信長も当時、奥州の伊達輝宗(1544〜85)にあてた書状で「義昭との対立を解くために上洛したところ、義昭は若公(義尋)を渡して京都を退去した」と記している。義昭追放に対する朝廷や諸大名の反応次第では、義尋を将軍に擁立することを考えていたのかもしれない。

 さらに、義昭が京都の拠点としていた二条城をしばらく破却せずに管理している。黒嶋さんは、信長が義昭が京都に戻る可能性と、義尋が将軍に就く選択肢を残していたのではないか、とみている。

 

義昭も代替わりを意識していた

 黒嶋さんは、一方の義昭も、人質として預けた義尋が信長によって16代将軍になることを期待していたのではないか、という。

 義昭は父の12代将軍、足利義晴(1511〜50)の政治を手本としていたとみられるが、義晴は天文五年(1536)に嫡男・菊幢丸きくどうまる(のちの13代将軍義輝)が生まれると、すぐに「御代」を譲って側近をつけ、形式的に隠居することで幕府政治の刷新と存続を図っている。父の前例を手本とするなら、義尋への禅譲も考えていたのではないか。

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足利義晴京都市立芸術大学付属資料館臓)

 黒嶋さんによると、信長に追放された後の義昭は、天正2年(1574年)の段階では反信長の御内書を乱発するような行動をしていない。自身の帰洛を図り、秀吉と交渉していたためとも思えるが、信長が嫡子を将軍にすることを期待していたとすれば腑に落ちる。

 秀吉との帰洛交渉で義昭は、和解の条件として信長側に人質を出すように求めている。秀吉は拒否して交渉は決裂したが、なぜ追放された側が人質を要求したのか。義昭は「義尋と同じ立場の人間を信長から得ることができれば、信長は義尋の処遇を考えざるを得なくなる」と考えたのかもしれない。

官位が義昭を超え、安土に城割り

 長篠の戦いに勝利した信長は天正3年(1576年)に家督を長男の信忠(1557〜82)に譲り、自らは近衛大将うこのえたいしょうに補任された。右近衛大将は歴代の足利将軍が補任される官位だが、義昭は補任されないまま京都を追放されている。

 この官位を得て義昭の地位を超越した信長は、翌天正4年(1577年)から安土城の築城を本格化させ、二条城を破却して部材を安土城に移している(城割り)。もはや京都に足利将軍を迎えることはない、というだけでなく、「安土こそこれからの権力の中枢」という意思を込めたのではないか。

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今の二条城より南にあった旧二条城(義昭居館)跡

 黒嶋さんは、この時点で義尋の16代将軍就任は完全に潰えたとみる。義昭が天正4年から諸国の大名に反信長の御内書を乱発するようになるのも、義尋の16代将軍就任が完全に消えたためではないか、という見立てだ。

 信長と義昭の一連の経緯は、秀吉が秀信の官位を越え、家康と秀頼の主従関係が逆転していった経緯と大筋で重なる。秀吉と家康は、前権力の断絶と新権力への継承、前政権の残滓を除去していく過程で、信長の前例を参考にした可能性がある。

将軍になれなかった義尋は

 僧になった義尋は大乗院門跡から興福寺の大僧正になり、2人の子をもうけている。2人の子はそれぞれ実相院門跡と円満院門跡の大僧正となったが、大僧正は女人を断つのが決まりなため、足利家嫡流は断絶した。

 『永山氏系図』によると、僧でありながら子供を儲けた義尋は興福寺を追い出され、還俗して足利高山たかやまと名乗ったというこのへんは父の義昭の生涯と重なる。義昭が父、義晴を手本としたように、義尋も義昭を手本としたのかもしれない。

 ちなみに義尋の正室で2人の子の母は、大河ドラマ麒麟がくる」にも登場する近衛前久さきひさ(1536〜1612)の孫娘である古市胤子あつこ(1583〜1658)だ。胤子は義尋と死別後に後陽成天皇(1586〜1611)に召され、3人の子をもうけているが、子どもたちは天皇にも、将軍にもなっていない。

世襲でない現代の継承の手順

 世襲でない現代も権力継承の手順はある。長期政権が続く安倍首相もどうやら総裁4選はなさそうだという空気が広がりつつあるが、首相が後継に目しているとされる岸田政調会長への支持が集まっていないという。

 このことは総選挙の時期と関係し、永田町には様々な憶測が飛び交い始めているらしい。平和裏に継承ができるのか、それとも本能寺や関ヶ原があるのか。どんな手順が必要になるのか、そろそろ仕掛けが始まるのではないか。

 参考文献

黒嶋敏『天下人と二人の将軍 信長と足利義輝・義昭』(2020、平凡社

足利義昭 #足利義尋 #織田信長 #権力継承

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