今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞編集委員  丸山淳一

日本独自のはんこ文化はいつ生まれたか

 河野行政改革担当大臣が進める行政デジタル化の一環として、約1万5000種類の行政手続きから「認め印」の押印がすべて廃止される見通しになった。河野大臣は「ハンコ文化を守ることには協力していく」というが、そもそも日本のはんこ文化の歴史はいつから始まり、どのょうに定着していったのかを振り返った。

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 中国から伝来し「官」から広がる

 はんこの起源は6000年ほど前、紀元前のメソポタミア文明にさかのぼるとされ、シルクロード経由で中国大陸、そして日本へと伝わった。日本最古の印は約2000年前に後漢光武帝から下賜され、福岡県の志賀島で江戸時代に見つかった「漢委奴国王かんのわのなのこくおう」の金印とされているが、この印は権力の象徴で実際に押されることはなかったとみられる。

 はんこが使われるようになるのは、大宝元年(701年)の大宝律令で公文書の印章制度が定められてから。天皇御璽ぎょじ太政官印などが押された公文書は、現在も正倉院に数多く保管されている。『続日本紀しょくにほんぎ』によると、個人印天平宝字2年(758年)に藤原仲麻呂(706~764)に初めて許されている。

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権力を握った恵美押勝(中央、『扶桑皇統記図会』国立国会図書館蔵)

日本独自の文化ははんこを使わない?

 仲麻呂正倉院への宝物収納を名目に天皇御璽を持ち出したり、反仲麻呂派と太政官印の争奪戦を行ったりしている。官職を唐風に改め、自らもみのおしかつと改姓改名するなど、唐の制度に傾倒した仲麻呂は官印を重視したが、裏返せば、このころのはんこはまだ日本独自の文化ではなかったともいえる。その証拠に、律令制度の衰退に伴って官印は使われなくなる。遣唐使が廃止され、国風文化(=日本独自の文化が芽生える平安後期以降は、公文書には花押を書くのが普通になっていく。今でも閣議決定の書類は大臣印ではなく署名(花押)で承認されている。

大陸から「私印」が伝来して復活

 だが、公印から消えたはんこは、再び中国の影響を受けて息を吹き返す。鎌倉時代に大陸から来日した禅僧が宋・元の「文人印」をもたらし、禅宗の普及に伴って僧侶が「私印」として書画の落款や蔵書印などにはんこを使うようになった。

 室町時代になると武士も私印を使うようになり、戦国時代には武将の「家印」が押された「印判状」が出されるようになる。一度廃れたはんこは武士とともに復活し、公印から私印、家印として使われるようになっていく。

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武蔵・蕨宿の五人組帳御請印帳(安政2年のもの。野村兼太郎『五人組帳の研究』国立国会図書館蔵)


 
江戸時代になるとはんこは庶民の間にも広がるが、普及の理由は江戸幕府が「家」を単位に民衆を管理したためだった。「五人組制度」による組織化が進められ、キリスト教禁止令を徹底するための宗門改しゅうもんあらためも「家」単位で行われ、誓約の証しとして署名の代わりにはんこが使われた。

 農民や町人のはんこは名主に、名主のはんこは代官や町年寄への届け出が義務付けられ、捺印なついんされた印鑑帳(請判帳、五人組帳ともいう)は名主などが保管した。明治維新以降ははんこの管理は名主から市町村に引き継がれた。現在の「実印」と「印鑑登録制度」の起源は江戸時代の戸籍管理制度にあるわけだ。

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官のはんこ廃止に民が抵抗

 明治維新で欧米の様式を取り入れた明治新政府は当初、江戸時代の印鑑制度を廃止しようとした。商取引などでは自筆のサインがあれば実印がなくてもいいという決まりが作られ、識字率が上昇した暁には実印を廃止しようとしうたのだが、この制度改正に金融業界から反対の声が上がった。大量の金融関係の書類にいちいち実印と自署を求めるのは不可能だという理由だった。

 この官民せめぎあいについては、コラム本文に詳しく書いたのでお読みいただきたい。せめぎあいの結果は、はんこの存続を求めた民間側の勝利。しかもはんこの効力があるのは実印に限られていたのに、商取引の証書では実印以外のはんこも可とされた。これが認印三文判)の普及につながった。

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 その一方で、行政手続きでの署名の有効性は変わらず、公的な手続きでは「署名も印も」すなわち署名(自署)した上ではんこを押す「捺印」が必要になった。本来は自署があれば十分なのにはんこが求められ、しかしそのはんこは三文判でもよく、でもシャチハタではダメ、という複雑怪奇な制度はこうして生まれた。

 やたらと文書にはんこを求める役所の手続きと、実印や印鑑証明の制度は、別々の経緯を経て定着した。銀行で署名や身分証明書があっても銀行印がないと自分の預金が下ろせないというのも、明治時代にはんこの存続を求めた銀行ならではの仕組みではある。いずれにさいても、日本独自のはんこ文化の歴史は意外と浅い。

スタンプも立派なはんこ文化だ

 「はんこ文化」という時には、寺社の御朱印や駅スタンプも当然加えるべきだ。これらのはんこは珍しい場所を訪れたり寺社に参拝したりした証しとして、収集・鑑賞の対象になっている。

 コラム本文では駅スタンプ収集家の新潮社元編集者、田中比呂之ひろしさんにご協力いただき、現在確認できる日本最古の駅スタンプを印影とともに紹介している。これまで日本初とされてきたのは昭和6年(1931年)に福井駅に置かれた駅スタンプだが、実はそれより前に別の駅に設置されていた。

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 許諾の関係上、ここでは紹介できないので、コラム本文をお読みいただきたい。

 

 

 

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学術会議問題と寛政異学の禁と滝川事件

 日本学術会議が推薦した新会員候補のうち6人を菅首相が任命しなかった一件が、尾を引いている。為政者による弾圧と抵抗は歴史にはつきもので、今回の任命拒否も学問の自由との関係が議論されている。

 だが、今回の一件を現時点で学問の自由の侵害=違憲というのは違う気がする。今の学術会議のあり方については学者の中からも改革を求める声が出ていた。どんな組織でも改革をするとき、人事から手を付けることは間違いではない。江戸時代の寛政異学の禁から、今回の一件を考えてみた。

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定信は老中になる前は朱子学を批判していた

 寛政異学の禁は江戸時代に寛政の改革を進めた老中・松平定信(1759~1829)が寛政2年(1790年)に出した命令で、朱子学を幕府の「正学」とし、昌平黌しょうへいこう昌平坂学問所)で朱子学以外を教えることを禁じた命令だ。

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現在の昌平黌(湯島聖堂

 一般的には封建時代の典型的な学問弾圧とみられがちだが、禁令はあくまで昌平黌で教える内容に限定されていた。在野の文人は正面から禁令に反発して定信に意見書を出すなどしており、それでも弾圧されてはいない。

 定信自身も老中に就任する5年前に書いた『修身録』の中で「学ぶと偏屈になる」と朱子学を批判し、「学ぶのは人それぞれ、〇〇学でなければならないことなどない」と力説している。老中になって宗旨替えしたとしても、学問弾圧の愚を知っていたことは間違いない。

学者が推し進めた異学の禁令

 ただ、各藩は幕府に忖度して藩校で教える学問を朱子学にするなど、影響は全国に広がっているのも確かだ。コラム本文にも書いたが、朱子学以外の学問の排斥に熱心だったのは、定信によって昌平黌の教官に抜擢された柴野栗山りつざん(1736〜1807)ら学者の方だった。定信は昌平黌で行われた役人の登用試験では朱子学以外も試験科目に加えるよう指示したが、栗山らは子の指示を無視して朱子学中心に改め、そのことが定信に露見しないような工作もしている。

 定信には抜擢した学者の監督責任があるから、知らなかったでは済まされないとはいえ、すべてが定信の指示ではなかったわけだ。

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讃岐・高松藩の儒官から抜擢された柴野栗山

背景に林家の乱れも 

 なぜ定信は朱子学以外を昌平黌から排斥したのか。コラム本文では田沼派との抗争が背景にあったことを紹介したが、大学頭だいがくのかみ世襲する林家の人材難も大きな理由だったようだ。

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 徳川家康(1543~1616)が林羅山らざん(1583~1657)の朱子学を「徳川家侍講じこうの学」と定めて以来、林家は学頭の役職を世襲し、旗本の門弟に朱子学を教えてきた。ところが、元禄時代以降は朱子学よりも実践的で、経済的な視点を備えた学派が台頭していた。林家には人材が出ず、大学頭の養母に艶聞が出るなど、家中に乱れもあった。

 定信は外部の朱子学者を昌平黌に招く人事を断行し、まず林家の力を削いだ後、昌平黌を幕府直営にして綱紀粛正を急いだわけだ。禁令は学問の弾圧ではなく、昌平黌の組織改革を主眼にしたといえるだろう。この禁令がどんな展開を辿り、その後の歴史にどんな影響を与えたかはコラム本文をお読みいただきたい。

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学術会議問題は「令和の滝川事件」か

 最後に、学術会議問題を「令和の瀧川事件」と呼ぶ声が上がっていることについて付言したい。瀧川事件とは、昭和8年(1933年)、京都帝国大学法学部教授の瀧川幸辰ゆきとき教授(1891~1962)の講演や著書の内容が自由主義的だとして、当時の文部大臣、鳩山一郎(1883~1959)が瀧川教授の休職を決めた思想弾圧事件だ。京大法学部は決定は学問の自由や侵害するものだと反発し、法学部教官全員が辞表を提出する騒ぎになった。

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京大を追われた瀧川だが、戦後は京大総長となる

 この事件では学術会議問題とは異なり、文部行政のトップにいた鳩山文部相には明白な学問弾圧の意図があり、大学の自治にも足を踏み込んでいる。前述した通り、筆者は学術会議の問題は現時点で学問の自由の侵害とは思っていない。学術会議の6人の任官拒否が組織改革を狙ったというなら、寛政異学の禁の実態の方が近いと考えた。

 だが、今の憲法には明治憲法にはなかった学問の自由が明記されている。今回の問題に将来、学問の自由を脅かす懸念がないとは言い切れない。当然ながら、学問の自由についてはしっかり見ておく必要がある。

 

 

 

安土城天主も江戸城天守も再建できないワケ

 織田信長(1534〜82)の安土城(国の特別名勝)の天主復元を検討してきた滋賀県の三日月知事が建物の復元を見送る方針を明らかにした。デジタル技術を用いた「再現」となる見通しだ。詳しい史料がなく、現時点では史実に忠実に復元することが難しいためだ。

  • 4案の中から選ばれたデジタル化
  • 全国の天守は5種類に分かれる
  • なぜ同じ時期に同じ種類の再建ブームが起きたのか
  • 規制緩和で来るか、令和の築城ブーム
  • 江戸城天守はおそらく復元できない
  • 将軍の叔父の諌め「天守より城下の再建を」

4案の中から選ばれたデジタル化

 滋賀県は2026年の築城450年祭に向け「目に見える形」での復元を目指し、①現地(安土城址)に「復元」②一部を変更する「復元的整備」③安土城址と別の場所に「再現」④デジタル技術を使っての「再現」――の4案について意見を募った。その結果は「建てなくてよい」(53%)という意見が「建ててほしい」(43%)を上回った。「建てなくてよい」のうち(59%)が「デジタルがよい」と答えたという。

 一度城を復元してしまうと、新たな史料が出てきた時に変更が難しくなる。復元には大河ドラマ麒麟がくる」の時代考証も務める小和田哲男さんも反対だったという。当ブログでもアイキャッチに使っている安土城天主の姿については異論がある。妥当な結論だったといえるだろう。

 信長好きの筆者は安土城も大好きで、以前にも当ブログに書いている。

 上記記事の冒頭では、近江八幡市がデジタル技術で「再現」安土城のCG(コンピューターグラフィックス)の映像を紹介している。滋賀県は仮想現実(VR)や拡張現実(AR)といったデジタル技術で視覚化するというが、日進月歩のデジタル技術を使い、近江八幡市のCG(これも出色の出来だと思うが)よりさらにいいものができることを期待したい(下の映像は滋賀県が制作)。

  

全国の天守は5種類に分かれる

 天守安土城は天主)の復元が検討されているのは安土城だけではない。名古屋城では木造天守の復元が検討されているし、松前城(北海道)、高松城香川県)でも計画が動き出している。なぜ、今なのか。そもそも天守安土城は天主)にはどんな種類があるのか、改めてまとめてみた。

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 「復元」とか「再現」と言われても、違いがわからない人も多いだろう。そもそも、全国にある70を超える天守は史実にどこまで忠実かどうかによって5種類に分類される。

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「麒麟がくる」に反映された「洛中洛外図屏風」の謎解き

 京都市中(洛中)と郊外(洛外)のパノラマ景観を描いた洛中らくちゅう洛外図らくがいず屏風びょうぶの中でも最高傑作とされる「上杉本」(国宝、米沢市上杉博物館所蔵)が、上野の東京国立博物館で開催中の特別展「桃山―天下人の100年」に出品されている。

 70点を超える洛中洛外図屏風のなかでも初期の作品で、狩野永徳かのうえいとく(1543~90)が描き、天正2年(1574年)に織田信長(1534~82)が上杉謙信(1530~78)に贈ったとされる名品だ。

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上杉本洛中洛外図(米沢上杉博物館所蔵)

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屏風は織田信長から上杉謙信に贈られた

謎多き「上杉本」をめぐる大論争

 永徳に屏風を発注した人物は誰が、何のために描かれたのか。多くの学者が描かれた背景や秘められた政治的なメッセージについて考察し、歴史学者の大論争も起きている。その結果、明らかになった屏風の発注主と、そこに隠されていた意外な新事実について紹介した。

 詳しい経緯はコラム本文に書いた。東京国立博物館に行かれる方は、ぜひその前にお読みいただければと思う。ここではコラム本文に書ききれなかった余話を取り上げたい。むしろ東博で実物を見た後にお読みいただいた方がいいかもしれない。

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鬼滅の刃と日本神話 “聖地”の共通点

  

人気漫画『鬼滅きめつやいば』のコミック累計発行部数が電子版を含めて1億部を突破した。「週刊少年ジャンプ」の連載はすでに終了しているが、人気は依然衰えず、劇場版の映画も公開された。

 物語のモデルは多くが不明だが、『鬼滅』ファンは主人公の少年、竈門かまど炭治郎たんじろうと同じ名前の神社などをゆかりの地に見立てて“聖地巡礼”に訪れている。

 これらの“聖地”の由来をたどっていくと、『鬼滅』と日本神話のつながりが浮かび上がってくる。

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  • 九州の神社や山を連想
  •  2つの「天孫降臨の地」との関係
  •  炭治郎は火の神カグツチ
  •  敗者で影の存在
  • 古事記にはない「鬼」の文字

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公式ファンブック

九州の神社や山を連想

 『鬼滅の刃』は人食い鬼に家族を惨殺された炭治郎が、鬼狩りの非合法組織「鬼殺隊」の仲間とともに鬼と戦う物語だ。家族の中で唯一生き残った妹の禰豆子ねずこも鬼と化し、炭治郎は妹を人間に戻す方法を探る使命も担っている。

 物語が展開するのは」大正時代だが、東京・浅草など一部を除いて舞台がどこなのかは作中からは分からない。炭治郎の出身地は公式ファンブックで東京都の雲取山くもとりやまとされているが、作者の吾峠ごとうげ呼世晴こよはるさんは福岡県の出身で、作中には九州の神社や山を連想させるエピソードが数多く盛り込まれている。

 神社に奉納された絵馬などを見る限り、“聖地”として注目されているのは福岡の宝満山竈門神社、大分県別府市の八幡竈門神社などのようだ。

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「今につながる日本史」反響まとめ

  

 読売新聞オンラインで連載したコラムに、このブログの書き下ろしも加えた『今につながる日本史』。ほぼ完売しましたが、Amazonなどのネット通販でもお買い求めいただけます。全国の図書館にも入っています。

 本は多くの方に読んでいただき、これまでに多くの反響をお寄せいただきました。本当にありがとうございます。これまでに登場した書評などをご紹介します。私が知らないところに登場しているものがあれば、お知らせ頂けるとありがたいです。

  • 「日本記者クラブ会報」7月号で自己PR
  • 高橋英樹さんにもお読みいただきました
  • FACTA8月号書評 明治学院大名誉教授/樋口隆一さん
  • 財務省広報誌「ファイナンス」8月号書評/渡部晶さん
  •  近現代史研究者/辻田真佐憲さん
  • ノンフィクションライター/早坂隆さん
  • ノマド アンド プランディング書評/大杉潤さん
  • エネルギーレビュー9月号書評/斉藤隆さん
  • フランク・ミシュラン帝京大教授
  • 雑誌『歴史群像』10月号
  • 書評サイト「本が好き!」/信ちゃんさん
  •  読書メーター 双子座の双子ちゃんのパパ/Syoさんほか
  • あるケミストの研究室
  • ツイッター
  • 同級生の大学教授(友人公開のSNSなので匿名・抜粋)
  • 「深層NEWS」のテレビマン(友人公開のSNSなので匿名・抜粋)

「日本記者クラブ会報」7月号で自己PR

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高橋英樹さんにもお読みいただきました

 憧れの俳優、高橋英樹さんも本をお読みくださったそうで、感激です!織田信長 の魅力をたっぷり語っていただいたロングインタビューは読売新聞オンラインで公開中です。

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平家の落人集落発見?100年前の国勢調査

  

 国勢調査が大正9年(1920年)の第1回調査以来、100 年の節目を迎えた。10月7日に回答期限を迎えた今回の調査は新型コロナの影響でインターネットによる回答が推奨されたが、回答率が低く、回答期限が20日まで延期された。

 回答しない世帯には調査員が訪れ、虚偽の回答をすると罰金が科せられることもある。インターネットによる回答は思ったより簡単なので、早く済ませることをお勧めしたい。

  •  遅れに遅れた第1回調査
  •  調査の重要性を知っていた原敬
  • 「一人も漏れなく、ありのまま」
  • 平家の落人集落、埼玉の山中に
  • 統計の重要性は浸透したか

 遅れに遅れた第1回調査

 国勢調査は“Population Census”の訳で、「国の勢い」ではなく、「国の情勢」を調べて知るという意味だ。「国勢」という言葉を用いて統計の重要性を最初に訴えたのは、早稲田大学創設者の大隈重信(1838〜1922)だった。

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大隈重信(左)と寺内正毅(国立国会図書館蔵)

 日本は明治35年(1902年)に「国勢調査ニ関スル法律」を定め、明治38年(1905年)に第1回調査を行い、世界人口センサスに参加する予定だった。しかし、その前年に日露戦争が始まり、莫大な予算が必要な国勢調査は実施が棚上げされた。

 10年後の大正4年(1915年)の調査も、第一次世界大戦の影響で流れてしまう。のちに岩手県知事や東京市長を務める内閣統計局長の牛塚虎太郎(1879〜1966) が、当時の首相、寺内正毅(1852〜1919)に「国勢調査実施ニ関スル件」という意見書を提出し、実施の必要性を説く。

 「欧米諸国は前世紀のはじめから国勢調査を行っている。欧米諸国に伍していくには国勢調査の実施は必須だ。明治35年国勢調査の実施を法律で定め公言しているのに、10年以上も実施しないとは、いかなることか」

 牛塚らの尽力によって大正6年(1917年)「国勢調査施行ニ関スル建議案」が衆議院で可決され、ついに大正9年の調査実施が本決まりになった。

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国勢調査を推進した牛塚(左)と原(国立国会図書館蔵)
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