今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

『 麒麟がくる』で「三悪」の汚名晴らした松永久秀

 NHK大河ドラマ麒麟がくる』で、吉田鋼太郎さんが演じる松永久秀(1508〜77)が織田信長(1534~82)に背き、信貴山城で自害した。

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松永久秀(『太平記英勇伝』)

 天下の大名物といわれた平蜘蛛を抱えて爆死するという俗説を採用しなかったあたりは、最新の研究に忠実なこのドラマらしい。久秀のこれまでの「官有梟雄」のイメージは、最近の学説で変わりつつある。

 2020年9月20日放送回では、向井理さんが演じる足利13代将軍義輝(1536〜65)が、永禄8年(1565年)に三好三人衆らに殺害される「永禄の変」が描かれた。しかし、これまでの大河ドラマのように、久秀を将軍義輝暗殺の首謀者として描かなかった。

 義輝が暗殺された後に久秀は、滝藤賢一さんが演じる義輝の弟の覚慶(足利義昭、1537〜97)を匿うなど、三好三人衆とは別の動きをしているが、これまでの大河ドラマではこのこともきちんと描かれなかった。しかし、最近の研究ではこれが史実とみられている。

久秀=悪人のイメージは『常山紀談』から

 久秀に梟雄のイメージがついたのは、江戸時代の儒学者、湯浅常山(1708〜81)の『常山紀談』にある以下の話が元になっている。

 徳川家康(1542〜1616)が信長を訪ねて会談した時、たまたま信長の傍に久秀がいた。信長は家康に「この男は、平然と3つの悪事をした」と紹介した。3つの悪事とは、

・将軍を暗殺した

・主君とその子らを死に追い込んだ

東大寺の大仏を焼き払った

 紹介された久秀は面目を失った。

 だが、そもそも信長が家康に久秀を紹介したという逸話自体が創作だろう。内容についてはとても信じられない。3つの悪事について、個別に検証してみよう。

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二条御所で三好勢に襲われる義輝(『絵本石山軍記『国立国会図書館蔵)

将軍暗殺時には不在のアリバイ

 まず、剣豪将軍の異名で有名な義輝を暗殺したのは三好義継(1549〜73)を中心とする三好勢と、久秀の息子である松永久通(1543〜77)だった。久秀は永禄の変当時は大和(奈良県)にいて、この事件には直接加わっていない。

 もちろん、実行犯ではなかったとしても、久秀が久通に暗殺を指示していた疑いは残る。しかし、久通や三好勢はあわせて覚慶を討とうとしたとされるのに対し、久秀は覚慶を救うため興福寺から脱出させている。将軍家をめぐる久秀と久通の考え方は異なっていた可能性が高い。

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細川藤孝らに従って興福寺を出る覚慶(『絵本石山軍記』国立国会図書館蔵)

 そもそも永禄の変は、三好・松永が二条御所を取り囲んで将軍に政策や人事の変更を申し入れる「御所巻」をしていたところ、取次の不手際や行き違いが生じ、本来は穏便に済むはずだった陳情が武力衝突に発展した、という「偶発事故説」もある。これが本当なら暗殺計画そのものがなかったわけで、久秀黒幕説はさらにあり得ないことになる。

 主君、その嫡男、弟の死も久秀のせい?

 久秀が、主君の三好長慶(1522〜64)の嫡男だった義興(1542〜63)と、弟の安宅冬康(1528?〜64)を死に追い込んだ、というのも誤りだ。久秀が最後まで忠実な家臣として仕えたのは、麒麟がくる』で描かれた通りだ。

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三好長慶像(南宗寺)

 確かに義興が死去した際に「義興が久秀の奸悪を見抜いて排除しようとしたため、逆に久秀によって毒殺された」という噂が立ったのは事実のようだ。だが、一次史料による裏付けはなく、逆に久秀が義興の病状を心配し、三好家への忠誠を誓った書状が残っている。

 忠誠を誓う一次史料がある、というだけでは久秀の毒殺を否定はできないが、久秀毒殺説のもとになった『足利季世記』や『続応仁後記』も、「毒殺の風聞(うわさ)があった」と記載しているだけで、久秀による毒殺とは言っていない。

 『足利季世記』は、毒殺の風聞について「如何なる故ありしにや」と疑問を呈し、『続応仁後記』は久秀毒殺説を、久秀の実力を妬んだ者による根拠のない「雑説」と断定し、むしろ毒殺説を否定しているのだ。

 義興の死の翌年の永禄7年(1564年)、長慶は弟の安宅冬康(1528?〜64)を飯盛山城に呼び出して誅殺した。これも久秀の讒言に乗せられたという説があるが、この頃の長慶は義興の死で心身に異常を来たし、思慮を失っていたという(『足利季世記』)。

 弟を誅殺した直後に長慶は病死したが、これを「久秀に心身ともに追い込まれたため」とするのは、久秀にあまりに酷な話ではないか

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奈良の大仏

大仏を焼いたのは偶発的な“事故”

 義昭を守る方向で動いた久秀は長慶の跡を継いだ義継と手を組み、三好一族や重臣三好三人衆)と対立する。両者の間で起きたのが、東大寺大仏殿が焼け落ちた永禄10年(1567年)の「大仏殿の戦い」だった。

 原因は久秀が三人衆を討ち取るべく大仏殿に火をかけたとされるが、『大和軍記』は「三好軍の鉄砲の火薬の火が燃え移った」とあり、『足利季世記』も「大仏殿周囲にあった三好軍の小屋に誤って火がついた」としており、久秀が火をかけた証拠はない。

 これだけで火をかけたのは久秀ではないと断定はできないし、「松永方の失火が原因」とする記録も存在する。だが、どちらが火をかけたにしろ、原因は偶発的な失火だった可能性が高い。

 仏教に敬意を表するなら大仏殿近くを戦場にすること自体控えるべきだった、というのはその通りだが、治承4年(1181年)に平重衡(1158〜85)によって焼かれた時のように、南都の仏教勢力を標的にした焼き討ちではなかったことは間違いなさそうだ

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平蜘蛛の釜

平蜘蛛の窯はどうなったか

 久秀が所有していた「平蜘蛛ひらぐもの窯」の正式名称は「天明こてんみょう平蜘蛛」。普通の茶釜より平らな外見が、蜘蛛が這いつくばっているようだ、ということでこの名がついた。

 信長がこの窯を所望していたのは史実とみられる。久秀は信長に臣従する際に、やはり大名物とされた「九十九髪茄子茶入」を献上しているが、「平蜘蛛」については信長の要望をはねつけ、生涯手放すことはなかった。

 『川角太閤記』などによると、総攻撃の前日、佐久間信盛を使者が信貴山城に入り、平蜘蛛の窯を差し出せば命は助ける、との信長の意向を久秀に伝えたが、久秀はこれを拒否。死後に信長の手に渡るのを嫌った久秀は、「爆薬を平蜘蛛に仕込んで首に鎖で結びつけ、家臣に点火させて自らもろとも木っ端みじんに爆破させた」という。

 この派手な爆死は過去の大河ドラマでも描かれた。久秀が爆死した永禄10年10月10日は、久秀が東大寺大仏殿を焼き払ったちょうど10年後だったという。

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炎上し、落城する信貴山城(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

 だが、『川角太閤記』は江戸時代に書かれた俗書で、内容はうかつに信じられない。『多聞院日記』には「松永親子は切腹し、首は安土に送られた」とあり、久秀は爆死していない。「麒麟がくる」では久秀は最期に炎に包まれるが、自刃というテロップが入っている。

 窯についても「信貴山城跡から見つかり、信長の手に渡った」という説や、「信貴山城攻めの前に、久秀の家臣で柳生新陰流の兵法家、柳生宗厳(1527~1606)に託されていた」という説もある。いずれにしても光秀が久秀から託されたというのは「麒麟がくる」の創作だ。

 同じ形状の窯はほかにもあるが、古天明は行方不明になった。残っていたとすれば、その後も大名の争奪戦が行われていてもおかしくないはずだが、その形跡はない。もっとも、簡素な侘びの美を尊ぶ千利休茶の湯が主流となると、平蜘蛛のような「奇形の道具」は不用とされたから、という見方もあるようだが。

なぜ江戸時代に悪役になったのか

 「最期は爆死」も後世の創作とすると、久秀を梟雄とするほぼすべての逸話が後世の創作か、かなり「盛った」俗説だったことになる。『常山紀談』の作者、湯浅常山(1708〜81)が、久秀をことさらに悪役に仕立てたのは、江戸時代中期の身分社会の動揺と関係があるという見方がある。

 この頃は柳沢吉保1658〜1714)ら側用人が家柄を無視して抜擢され、巷では大名や旗本を差し置いて豪商が幅をきかせていた。儒学者の常山は下剋上で台頭した久秀を使って、成り上がり者は悪事を働くというイメージを形成したかったのではないか

 それにしてもかわいそうなのは、死後100年以上経過してから悪役とされた久秀だ。3つの悪事はいずれも根拠のない噂に基いているが、だからこそやっていないことを完全否定するのは非常に難しい。

 もし生前にこんなうわさが出たら、久秀は「モリカケ問題」でも言われた「悪魔の証明」に苦しむことになっただろう。『麒麟がくる』で名誉が回復され、あの世の久秀はきっと喜んでいるのではないか。

*2021年1月11日、内容を捕足しました、

 

 

 

maruyomi.hatenablog.com

 

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