今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

願望、幻想をのみ込む魅力…天下取りの名刀「義元左文字」

 刀剣ブームが続いている。熊本のテレビ局に赴任していた時、阿蘇神社に伝わる幻の宝刀「 蛍丸ほたるまる」の復元プロジェクトを取材して、そのすごい人気に驚いた。オンラインゲーム『刀剣乱舞』に登場する刀を擬人化したキャラクターのファンになり、刀そのものにも興味を持つ若者が一気に増えたという。

 蛍丸の不思議な物語については過去に取り上げた。最近は『鬼滅の刃』ブームも加わって、鬼( しゅてんどう)の首をねたという伝説がある「どう切安綱ぎりやすつな」なども注目されている。刀剣ファンには、それぞれが好きな「推し」の刀があるようだ。今回は筆者の「推し」の刀「義元左文字よしもとさもんじ」を紹介した。

読売新聞オンラインのコラム本文

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桶狭間の合戦で刀を手に戦う今川義元。手にしているのは義元左文字か(『大日本歴史錦絵』国立国会図書館所蔵)

天下人の間を渡り歩いたすごい刀

 義元左文字駿河静岡県)守護で「海道一の弓取り」と呼ばれた武将、今川義元(1519~60)が所持したのが名前の由来。永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦で義元を討って織田信長(1534~82)が奪い取り、天正10年(1582年)の本能寺の変の後に豊臣秀吉(1537~98)の手にわたり、関ヶ原の合戦翌年の慶長6年(1601年)に徳川家康(1543~1616)のものとなる。3人の天下人が所有した華麗な来歴を持つすごい刀だ。

 作者の左文字は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて筑前(福岡県)・博多で活躍した刀匠だ。相模(神奈川県)で名匠の正宗(生没年不明)から技を学び、筑前に戻る際には正宗が別れを惜しんで服の左袖を引きちぎって渡したという伝説がある。それ以来、銘に「左」の字を切り、弟子の刀匠集団は「左文字派」と呼ばれたという。

さらに武田信虎が持っていた?

 刀ができたのは信長が所有する200年ほど前とみられ、義元の前にも所有者がいたはずだ。『名物録』(第2類)には以下の由来がある。

 義元
 三好左文字
 宗三
 磨上 長弐尺弐寸壱分半 無代
 三好宗三所持武田信虎へ遣ス義元へ伝、信長公之御手ニ入彫付表中心樋之内ニ永禄三年五月十九日平ニ義元討取之刻彼所持之刀裏平ニ織田尾張守信長ト有之信長公御所持之時失ル、後ニ秀頼公之御物ニ成ル 家康公江被進、表裏樋有之

 この記述に従えば、義元左文字は「三好左文字」「宗三左文字」の別名が示す通り、もともと三好政長(宗三、1508~49)が所持し、政長から甲斐かい山梨県)の守護、武田信虎(1494~1574)に贈られ、さらに義元に贈られたことになる。

 政長は、摂津(大阪府)守護で室町幕府管領も務めた細川晴元(1514~63)の重臣だった。晴元の妻は公家の三条 公頼きんより(1498~1551)の娘で、信虎の息子の武田晴信(信玄、1521~73)に嫁いだ三条の方(1521?~70)の姉でもある。左文字は天文5年(1536年)の三条の方の輿入こしい れにあわせて、政長から信虎に贈られたとみられる。

甲府駅北口に立つ武田信虎像(左)と三条の方(甲府市・円光院蔵)

 信虎が義元に贈ったのは甲駿同盟が成立した天文6年(1537年)か、信虎が晴信に追放されて駿河に身を寄せた天文10年(1541年)とみられる。信長が手に入れる前の左文字は、政略結婚や同盟の引き出物として戦国武将の間を行き来していたらしい。

本能寺の変でどうなった?

 桶狭間の合戦に勝った信長が左文字を召し上げたことは、所有者(信長)の銘が刀に彫られている以上、間違いないだろう。秀吉から相続した豊臣秀頼(1593~1615)から家康に渡ったというのも信じていいだろう。家康以降の左文字徳川将軍家に引き継がれ、明治になって徳川家当主の 家達いえさと (1863~1940)から京都の建勲神社に寄進されている。明暦3年(1657年)には明暦の大火で焼けたものの、再生された。

 以上の来歴で不明確なのは、本能寺の変以降、信長から秀吉に渡った経緯だ。信長は義元から奪った刀を佩刀にしたというが、ならば天正10年(1582年)の本能寺の変で刀は焼けてしまったとみるのが自然だ。

 文化庁の国指定文化財等データベースには「信長が銘を入れた後、松尾社の神官に渡り、秀吉に献上」されたとあるが、突然、なぜ松尾大社の神官が登場するのか。どうやって松尾大社に渡ったのか。「本能寺に松尾大社の神官の娘がいて、脱出する際に信長の枕元から持って逃げた」という話まで流布しているが、史料の裏付けはない。

「どうゆう所有の他の左文字」説も

 『椿井文書―日本最大級の偽文書』(中公新書)を書いた大阪大谷大学准教授の 馬部ばべ 隆弘さんは、「名物刀剣『義元(宗三)左文字』の虚実」という論文で、義元左文字は本能寺で焼失し、今ある義元左文字は秀吉かその周辺の人物が、別の左文字に「織田尾張守信長」の銘を入れさせたのではないか、という仮説を発表している。

 信長はほかにも左文字の刀を所有しており、その中には政長とともに晴元に仕えた 垪和はが道祐どうゆう が所有していた「道祐左文字」もあった。信虎は入道後に「 道有どうゆう 」を名乗っており、政長→信虎の来歴は同じ「どうゆう」が取り違えられたのではないか、というわけだ。

疑問を吹き飛ばす名刀のきらめき

 コラム本文では、京都国立博物館工芸室主任研究員の末兼俊彦さんにこの疑問をぶつけてみた。信長の銘の金の 象嵌ぞうがん には火災で溶け落ちた部分があるのだが、これは本能寺の変によるものか、明暦の大火によるものかも聞いた。疑問を上回る魅力ある答えを聞けたので、お読みいただきたい。「よくぞ今まで残ってくれた」と思ったのは、筆者だけではないはずだ。

 

 

 

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