トルコ南部で2月6日に起きた大地震で、トルコと隣国シリアの死者があわせて5万人を超えた。死者数が1万人を超える地震は、東日本大震災以来だという。
亡くなられた方々に弔意を表し、被災された方々にお見舞い申し上げたい。地震を機に、日本とトルコの絆の歴史について、もう一度考えてみた。
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地震のたびに助け合ってきた
日本政府はただちにトルコに国際緊急援助隊を派遣し、政府専用機を飛ばして仮設の手術用施設や人工呼吸器、テント、発電機、水循環型シャワー装置などを届けた。記者会見したトルコのチャブシオール外相によると、各国のトルコ大使館などの銀行口座に寄せられた大地震支援の募金で最も多いのは日本だという。
地震国という共通点を持つ日本とトルコは、上の表に示したように最近も大きな地震の際に互いに助け合ってきた。平成23年(2011年)3月の東日本大震災では、トルコが32人の救助隊を日本に派遣し、海外の救助隊の中で最も遅くまで日本に残って行方不明者の捜索などにあたった。
缶詰、飲料水、毛布を運んで宮城、福島両県に届けられている。同じ年の10月にはトルコ東部で大きな地震があり、東日本大震災の傷跡が残る日本が逆にトルコを支援している。
だが、トルコが世界有数の親日国となったきっかけは地震ではなく、台風だった。明治23年(1890年)9月16日、オスマン・トルコの巡洋艦が台風に遭遇し、和歌山県串本町沖で座礁・沈没した「エルトゥールル号事件」だ。
献身的に救助にあたった紀伊大島の人々
エルトゥールル号は明治20年(1887年)に日本の皇族がオスマン・トルコを公式訪問した答礼として、特使を乗せて日本を訪問し、横浜からの帰路に遭難した。
遭難地点に近い紀伊大島の住民は総出で救助に当たり、自分たちの衣服を着せ、蓄えていた食べ物で炊き出しをするなど救護に努めた。明治政府も直ちに医師や看護師を派遣したほか、沈没船からの遺品捜索まで念入りに行った。懸命の救護活動で救えたのは69人だけで、死者・行方不明587人という大惨事となったが、生存者は日本海軍の巡洋艦「金剛」と「比叡」によってトルコに送り届けられた。
日本の対応に感激した皇帝のアブデュルハミト2世(1842~1918)はイスタンブールに到着した両艦の日本人将校を歓待し、事件の顚末は両国で美談として大きく報じられた。トルコでは小学校の教科書の副読本に取り上げられ、今も多くの人が知っているという。
日露戦争勝利に貢献した「民間大使」
日本ではエルトゥールル号乗組員の負傷者や遺族に義援金を贈る運動が始まり、山田寅次郎(1866~1957)という若者がその先頭に立つ。日本中を演説して回り、5000円(現在の価値で1億円)を集めた山田は、自ら義援金を届けるためトルコに渡る。山田はアブデュルハミト2世の要請を受けてトルコに留まり、士官学校で日本語や日本の文化を教えた。アブデュルハミト2世の支援を受けてトルコに対日貿易を担う店を開き、事実上の大使として日本とトルコの交流を強化していく。
明治37年(1904年)に日露戦争が始まると、山田は自発的にボスポラス海峡を監視し、「ロシア黒海艦隊の艦艇3隻が商船に擬装してボスポラス海峡を通過した」という情報を在ウィーン日本大使館経由で日本に伝えている。
日本海海戦で日本の連合艦隊はバルト海から回航してきたバルチック艦隊を対馬沖で撃破しているが、連合艦隊はひとつしかなく、二つの大艦隊が同時に極東に回航されれば勝ち目はなかった。黒海艦隊の一部が出撃したことを伝えた山田の情報によって黒海艦隊の主力が出撃しないことが判明し、連合艦隊の参謀、秋山真之(1868~1918)は勝利を確信したとされる。
ちなみに秋山は比叡の乗組員として、エルトゥールル号事件の生存者をトルコに送り届けた乗組員のひとりだった。
あまり知られていない「平明丸事件」
エルトゥールル号事件に比べ、あまり知られていないのが大正10年(1921年)2月に起きた「平明丸事件」だ。
ロシアは第1次世界大戦でトルコ兵6万5000人を捕虜とするが、シベリア出兵によってウラジオストクを占領した日本軍は、このうちシベリアに抑留されていたトルコ兵1012人とその妻子を解放し、トルコに送還する。ウラジオストクを出港した輸送船「平明丸」はイスタンブールへ到着する直前、エーゲ海でトルコと対立していたギリシャ軍に拿捕されてしまう。
ギリシャ軍はトルコ人捕虜の引き渡しを要求するが、平明丸司令官の津村諭吉(1881~1927)中佐は断固拒否した。イタリアの仲介によってトルコ兵がイタリアに引き渡されるまで、津村らは半年以上もトルコ兵とともに海上で抑留された。津村の行動をたたえて3年前、イスタンブールに「ユキチ・ツムラ通り」と名付けられた大通りが誕生した。
邦人のイラン脱出に“助け舟”
昭和60年(1985年)3月、イラン・イラク戦争の最中にイラク大統領サダム・フセイン(1937~2006)は「48時間の猶予後にイラン上空を飛ぶ航空機をすべて撃墜する」と宣言した。当時はまだ政府専用機はなく、自衛隊機も法律上、邦人救出には使えなかった。他国の人々が続々とイランを脱出する中、日本人は取り残された。
この時、伊藤忠商事イスタンブール支店長だった森永堯(1942~2014)からの救助要請で日本人の窮状を知ったトルコ首相のトゥルグト・オザル(1927~93)は、トルコ航空機2機をテヘランに飛ばすことを決断し、危険をおかして日本人をトルコに退避させた。日本人215人がトルコに到着したのは猶予期間終了まで2時間を切っていたという。
日本人を救出した理由を問われ、当時の駐日トルコ大使は、「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」と答えている。
国益や同盟関係を超えて
森永は民間企業の支店長が一国の首相に救援機の派遣要請などしていいのか悩みに悩んだが、最後に背中を押したのはオザルとの深い親交だった。山田とオスマン皇帝の関係によく似ている。
社交的で友達が多い人にも、すべてを話せる無二の親友がいるように、国益や同盟関係を超えて互いを思い、助け合える国があることは双方の国民にとって、幸せなことではないか。東日本大震災から間もなく12年という時に起きた今回のトルコの災禍を、人ごとにしてはならない。
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