今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

本能寺では囲碁対局…本因坊算砂が拓いた将棋の歴史

 第34期竜王戦七番勝負で藤井聡太三冠が4連勝し、竜王のタイトルを奪取した。史上最年少の19歳3か月で四冠を達成した藤井新竜王は、棋士の序列を示す席次でも1位となった。

 日本の将棋の歴史に刻まれる出来事を機に、日本の将棋1000年の歴史を振り返った。

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シンプルになって公家から武士、庶民へ

 将棋の歴史を振り返ると、好敵手の名勝負が発展を支えてきたことがわかる。日本に将棋が伝わった時期ははっきりしないが、囲碁の方が数世紀早かったといわれている。奈良県興福寺から天喜6年(1058年)の木簡もっかんとともに将棋の駒が出土しているから、11世紀には貴族たちに広がっていたようだ。

 だが、このころ貴族が指したのは駒数100枚以上の「大将棋」とみられ、その後「中将棋」(駒数92枚)、「小将棋」(駒数46枚)と、時代が下るにつれて駒数が減り、シンプルになるにつれて公家から武士、さらに庶民へと将棋が広がっていった

「厩図屏風」には将棋を指す人々(右)が描かれている(https://colbase.nich..go.jp/collection_items/tnm/A-1-10139?locale=jaを加工)

日本独自の「再利用」で高度な頭脳ゲームへ

 今の駒40枚の将棋スタイルが確立したのは戦国時代末期とみられる。取り捨てだった駒の再利用を認めたことで、将棋は複雑でほぼ無限に局面が変化する奥深い頭脳戦に昇華していく。

小将棋は合戦に見立てられ、武士に愛された
歌川国芳「駒くらべ盤上太平棊」、国立国会図書館蔵)

 チェスにも中国や朝鮮の将棋にもない駒の再利用ルールが日本の戦国時代に始まった理由について、将棋史研究者の山本亨介(1923~95)は、勝者が敗者を皆殺しせず、配下に加えて勢力の増強をはかる日本の合戦の思想が背景にある、と分析している(『将棋文化史』)。

芸事となり家元制へ

 駒の再利用で囲碁とともに高度な頭脳が必要な「芸事げいごと」となり、指し手の地位は向上していく。江戸時代には幕府公認となって家元制が導入されるのだが、そのきっかけとなったのが将棋の家元「大橋家」の始祖、初代大橋宗桂(1555~1634)と、京都寂光院塔頭たっちゅう本因坊を拠点に活躍した僧、日海(のちの本因坊算砂、1559~1623)の対局だった。

日海(本因坊算砂)(『肖像集』国立国会図書館蔵)

碁打ちは将棋指しを兼業していた

 本因坊」というと囲碁を思い浮かべるが、日海は将棋も強かった。徳川幕府は慶長17年(1612年)に「碁打ち、将棋指し衆」8人に俸禄を与えているが、日海は囲碁と将棋のトップである「碁将棋所ごしょうぎどころ」を兼務していたとされる。

 「碁所」「将棋所」という役職は正式な組織ではなかったようだが、宗桂と日海は対局以外にもさまざまな機会を使って将棋の腕を幕閣や公家などに売り込み、幕府から俸禄を勝ち取っていた。

実力主義、安易な世襲は許されず

 家元制ができた後も、初代宗桂が没すると、在野の強豪が大橋家にとってかわろうと次々に対局を求めてきた。家元は勝ち続けてこうした挑戦を退けなければならず、日々鍛錬が求められた。安易な世襲は許されず、棋力がなければ容赦なく切られ、外部の優秀な人材や門弟が養子に入って後を継ぐ実力主義が貫かれていた。

日海の本能寺の対局で起きた珍事

 将棋からは少し外れるが、織田信長(1534~82)は囲碁が好きだった。天正10年(1582年)の本能寺の変の前夜にあたる6月1日夜、本能寺に招かれた日海は、信長が見物する中で本能寺の僧、利玄(1565~?)と対局している。その時に1万局に1回出るか出ないかと言われる「三劫さんこう」という将棋でいう千日手のような局面が出たという逸話がある。

www.yomiuri.co.jp

 『爛柯堂棋話』によると、見物していた人々は珍事に驚いたが、深夜に両僧が本能寺を辞して半里ばかり行ったところで陣太鼓が鳴るのを聞いた。明智光秀(?~1582)の謀反だった。それ以降、「三劫」は不吉のしるしとされたという。

 将棋家元の血を吐くような熱戦や、将軍家と将棋のかかわり、歴代将軍で最も強い棋士は誰かといった話は、コラム本文に詳しく記したのでお読みいただきたい。藤井四冠も体を削るような棋士人生が続くだろう。どこまで強くなるか期待しつつ、どうか体に気をつけてと申し添えておく。

 

 

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願望、幻想をのみ込む魅力…天下取りの名刀「義元左文字」

 刀剣ブームが続いている。熊本のテレビ局に赴任していた時、阿蘇神社に伝わる幻の宝刀「 蛍丸ほたるまる」の復元プロジェクトを取材して、そのすごい人気に驚いた。オンラインゲーム『刀剣乱舞』に登場する刀を擬人化したキャラクターのファンになり、刀そのものにも興味を持つ若者が一気に増えたという。

 蛍丸の不思議な物語については過去に取り上げた。最近は『鬼滅の刃』ブームも加わって、鬼( しゅてんどう)の首をねたという伝説がある「どう切安綱ぎりやすつな」なども注目されている。刀剣ファンには、それぞれが好きな「推し」の刀があるようだ。今回は筆者の「推し」の刀「義元左文字よしもとさもんじ」を紹介した。

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桶狭間の合戦で刀を手に戦う今川義元。手にしているのは義元左文字か(『大日本歴史錦絵』国立国会図書館所蔵)

天下人の間を渡り歩いたすごい刀

 義元左文字駿河静岡県)守護で「海道一の弓取り」と呼ばれた武将、今川義元(1519~60)が所持したのが名前の由来。永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦で義元を討って織田信長(1534~82)が奪い取り、天正10年(1582年)の本能寺の変の後に豊臣秀吉(1537~98)の手にわたり、関ヶ原の合戦翌年の慶長6年(1601年)に徳川家康(1543~1616)のものとなる。3人の天下人が所有した華麗な来歴を持つすごい刀だ。

 作者の左文字は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて筑前(福岡県)・博多で活躍した刀匠だ。相模(神奈川県)で名匠の正宗(生没年不明)から技を学び、筑前に戻る際には正宗が別れを惜しんで服の左袖を引きちぎって渡したという伝説がある。それ以来、銘に「左」の字を切り、弟子の刀匠集団は「左文字派」と呼ばれたという。

さらに武田信虎が持っていた?

 刀ができたのは信長が所有する200年ほど前とみられ、義元の前にも所有者がいたはずだ。『名物録』(第2類)には以下の由来がある。

 義元
 三好左文字
 宗三
 磨上 長弐尺弐寸壱分半 無代
 三好宗三所持武田信虎へ遣ス義元へ伝、信長公之御手ニ入彫付表中心樋之内ニ永禄三年五月十九日平ニ義元討取之刻彼所持之刀裏平ニ織田尾張守信長ト有之信長公御所持之時失ル、後ニ秀頼公之御物ニ成ル 家康公江被進、表裏樋有之

 この記述に従えば、義元左文字は「三好左文字」「宗三左文字」の別名が示す通り、もともと三好政長(宗三、1508~49)が所持し、政長から甲斐かい山梨県)の守護、武田信虎(1494~1574)に贈られ、さらに義元に贈られたことになる。

 政長は、摂津(大阪府)守護で室町幕府管領も務めた細川晴元(1514~63)の重臣だった。晴元の妻は公家の三条 公頼きんより(1498~1551)の娘で、信虎の息子の武田晴信(信玄、1521~73)に嫁いだ三条の方(1521?~70)の姉でもある。左文字は天文5年(1536年)の三条の方の輿入こしい れにあわせて、政長から信虎に贈られたとみられる。

甲府駅北口に立つ武田信虎像(左)と三条の方(甲府市・円光院蔵)

 信虎が義元に贈ったのは甲駿同盟が成立した天文6年(1537年)か、信虎が晴信に追放されて駿河に身を寄せた天文10年(1541年)とみられる。信長が手に入れる前の左文字は、政略結婚や同盟の引き出物として戦国武将の間を行き来していたらしい。

本能寺の変でどうなった?

 桶狭間の合戦に勝った信長が左文字を召し上げたことは、所有者(信長)の銘が刀に彫られている以上、間違いないだろう。秀吉から相続した豊臣秀頼(1593~1615)から家康に渡ったというのも信じていいだろう。家康以降の左文字徳川将軍家に引き継がれ、明治になって徳川家当主の 家達いえさと (1863~1940)から京都の建勲神社に寄進されている。明暦3年(1657年)には明暦の大火で焼けたものの、再生された。

 以上の来歴で不明確なのは、本能寺の変以降、信長から秀吉に渡った経緯だ。信長は義元から奪った刀を佩刀にしたというが、ならば天正10年(1582年)の本能寺の変で刀は焼けてしまったとみるのが自然だ。

 文化庁の国指定文化財等データベースには「信長が銘を入れた後、松尾社の神官に渡り、秀吉に献上」されたとあるが、突然、なぜ松尾大社の神官が登場するのか。どうやって松尾大社に渡ったのか。「本能寺に松尾大社の神官の娘がいて、脱出する際に信長の枕元から持って逃げた」という話まで流布しているが、史料の裏付けはない。

「どうゆう所有の他の左文字」説も

 『椿井文書―日本最大級の偽文書』(中公新書)を書いた大阪大谷大学准教授の 馬部ばべ 隆弘さんは、「名物刀剣『義元(宗三)左文字』の虚実」という論文で、義元左文字は本能寺で焼失し、今ある義元左文字は秀吉かその周辺の人物が、別の左文字に「織田尾張守信長」の銘を入れさせたのではないか、という仮説を発表している。

 信長はほかにも左文字の刀を所有しており、その中には政長とともに晴元に仕えた 垪和はが道祐どうゆう が所有していた「道祐左文字」もあった。信虎は入道後に「 道有どうゆう 」を名乗っており、政長→信虎の来歴は同じ「どうゆう」が取り違えられたのではないか、というわけだ。

疑問を吹き飛ばす名刀のきらめき

 コラム本文では、京都国立博物館工芸室主任研究員の末兼俊彦さんにこの疑問をぶつけてみた。信長の銘の金の 象嵌ぞうがん には火災で溶け落ちた部分があるのだが、これは本能寺の変によるものか、明暦の大火によるものかも聞いた。疑問を上回る魅力ある答えを聞けたので、お読みいただきたい。「よくぞ今まで残ってくれた」と思ったのは、筆者だけではないはずだ。

 

 

 

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もう少し時間があれば…明治の偉人に絶賛された小栗忠順

 NHK大河ドラマ「青天をけ」で、もう少し長く見たかった人物がいる。東征軍(後の新政府軍)との徹底抗戦を唱えて 罷免ひめんされ、領地だった上州権田村(現在の群馬県高崎市)で理不尽に殺害された 小栗おぐ上野介こうずけのすけ忠順ただまさ(1827~68)だ。

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  • 渋沢栄一より早く1万円札の顔になっていた?
  • 「いずれ」ではなく「すぐに」
  • 抜きんでた才覚で「お役替え70回」
  • 今の中国と同じ「債務の罠」を見抜く
  • 濡れ衣着せられ理不尽な最期

渋沢栄一より早く1万円札の顔になっていた?

 ドラマで武田真治さんが演じた小栗は、外交、通商、行財政改革から金融政策、産業振興など非常に多岐にわたって改革や近代化を成し遂げた。大隈重信(1838~1922)は、「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と語り、福沢諭吉(1835~1901)も「鞠躬尽瘁きっきゅうじんすい(国のために命をかけて尽くすこと)の人」と小栗をたたえている。

 小栗は日本初の政府(幕府)公認の兌換だかん紙幣である「江戸横浜通用金札」の発行にも携わっている。もう少し長生きしていれば、福沢や渋沢栄一(1840~1931)より先に1万円札の顔になっていたかもしれない。

「いずれ」ではなく「すぐに」

 さらに小栗のすごいところは、幕末の動乱のさなかだったにもかかわらず、多くを計画倒れに終わらせず、明治新政府に引き継いでいることだ。

遣米使節の3人。右が目付の小栗。左が副使の村垣範正、中央は正使の新見正興
(『幕末・明治・大正回顧八十年史』国立国会図書館蔵)

 安政7年(1860年)には遣米使節目付(監察)として渡米した。明治維新の前後には多くの日本人が欧米に渡り、欧米との国力の差にショックを受けているが、小栗は国力の差に臆さずに、「なぜこんなすごいものを作れるのか」「必要な資金はどうやって集めているのか」まで調べあげ、「いずれ」ではなく「すぐに」日本に取り入れようとした。

ホワイトハウス米大統領に国書を奉呈する小栗ら
(ニューヨーク絵入新聞『幕末・明治・大正回顧八十年史 第2輯』国立国会図書館蔵)

 フィラデルフィア造幣局で行われた日米の通貨交換比率見直しの交渉では、日本の小判とアメリカ金貨の銀の含有量を分析するよう強硬に求め、日米修好通商条約で日本側が呑まされた交換比率が不当なことを認めさせている。タフ・ネゴシエーターぶりを発揮した小栗はアメリカの新聞に絶賛された。

ワシントン海軍工廠を視察した遣米使節。前列右から2人目が小栗
(『幕末・明治・大正回顧八十年史』国立国会図書館蔵)
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この世をば…「望月の歌」を巡る新解釈とは

 「平安」時代という名前や「貴族の世の中」というくくり」が影響しているのかもしれない。ちょうど1000年前、平安時代の貴族は優雅で安定した時代を 謳歌おうか していた、というのが多くの人の印象だろう。

 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば

 あまりにも有名な藤原道長(966~1028)の「望月の歌」だ。当時は摂関政治の全盛期で、道長はその頂点にいた。「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている」――誰もが得意満面な道長の顔を思い浮かべるこの歌に、新解釈が登場した。当時の貴族は本当に優雅な生活をしていたのかも含めて、学説を紹介した。

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賢人右府・藤原実資道長の駆け引き

 3人の娘を次々に天皇の (皇后、中宮)として権勢をふるった道長には、傍若無人の専横を伝える多くの逸話がある。「望月の歌」は「賢人右府」と呼ばれた藤原実資さねすけ(957~1046)の日記『 小右記しょうゆうき』の寛仁2年(1018年)10月16日の条に書き留められている。月夜に開かれた宴席で、道長は当時右大将だった実資に「今から座興で歌を詠むので返歌せよ」と命じて「望月の歌」を詠んだという。

 実資は「優美な歌で、返歌のしようがない。皆でただこの歌を詠じてはどうか」と呼びかけて、一同がこの歌を数回吟詠したという。実資は故実有職に詳しい当代一流の知識人で、道長びずに意見することも辞さない気骨のある人だった。

 このため、実資が返歌を拒んだのは権勢を自慢する「望月の歌」に内心あきれたからで、とはいえ祝いの席を台なしにするわけにもいかず、やむなく唱和を促した、というのが通説だ。

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    藤原道長(左)と藤原実資(『前賢故実巻6』国立国会図書館蔵)

 

歌は満月の夜に詠まれたのか

 旧暦は月の満ち欠けで暦をつくり、新月から新月までを1か月とする。新月から満月まではその半分。十五夜の月は通常なら満月だ。「望月の歌」が詠まれたのは10月16日の夜で、月は通常なら少しだけ欠けた十六夜いざよいの月となる。

 だが、寛仁2年10月16日夜の月は、天文暦法上は「ほぼ満月」だった。詳しい説明は省くが、旧暦でもいつも15日が満月とは限らない。この日はその特別な日だったという指摘を読者からいただいた。

 新解釈を発表した京都先端科学大学教授の山本淳子さんは、和歌の世界では十六夜の月を満月と詠むのは不自然だという前提に立ち、道長は「望月」に別の比喩を込めたのではないかと考えている。詳細はコラム本文をお読みいただきたい。

道長は病で月が見えなかったという説も 

 新解釈では、歌の意味だけでなく、歌が詠まれた状況もだいぶ変わる。新解釈によって通説が完全に否定されたわけではなく、新たな解釈にはさまざまな観点から異論が出ていることは付記しておく。

 道長はこの時、病で月は見えなかったのではないかという説もある。道長は糖尿病(「飲水」と呼ばれていた)を患っていたという説がある。県力の絶頂にいた道長もさまざまな苦労や不安を抱えていたことはどうやら間違いないようだ。

 2024年の大河ドラマは、「望月の歌」を素通りはできないだろう。この有名な逸話をどのように描くのだろうか。

 

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ジャパンブルーはサムライブルーか

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2021年に発売されたサッカー日本代表 100周年アニバーサリーユニフォーム

 大河ドラマ「青天を衝け」で藍染めが出てくることから、ジャパンブルーの歴史を探ってみた。

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武士の「勝ち色」由来説には異説も

 サッカー日本代表の青のユニホームは、日本がオリンピックのサッカー競技に初参加した昭和11年(1936年)ベルリン大会で採用された。採用された理由について、江戸時代に武士(侍)が好んだ『勝ち色』にあやかったという説がある」と書いたところ、「東京帝国大学のユニフォームが青だったからではないか」という指摘を複数いただいた。昭和5年(1930年)にサッカーの第9回極東選手権に出場した初の選抜チームのユニホームが、12人の選手を送り込んだ東京帝大のユニホームにならったという説だ。

 確かにこの大会では日本が優勝し、それ以降、日本代表のユニホームは青が基本となったといわれている。だが、東京帝大が由来という見方については日本サッカー協会は「わからない」としており、むしろ協会のホームページは、ユニホームの藍色は「サムライブルー」とも呼ばれてうぃることを紹介していることから、コラムでは「勝ち色」説を紹介した。発祥は東京帝大のユニフォームの色だったとしても、「ベルリンの奇跡」があったから、ユニフォームの色が青に定着したというのは正しいと思う。

 偶然とはいえ、ジャパンブルーを支えた「ベロ藍」と、サムライブルー発祥の「ベルリンの奇跡」がともにドイツだったところに因縁を感じるのだ。

 

 

 

 

堤真一さんが演じた平岡円四郎の志、渋沢栄一はどう引き継いだか

 史実は変えられないとはわかっていても、「平岡ロス」に陥っている視聴者も多いのではないか。NHK大河ドラマ『青天をけ』の5月30日放送回で、ドラマ前半のキーマンだった一橋(徳川)慶喜(1837~1913)の側近、平岡円四郎(1822~64)が暗殺された。あまり知られていない円四郎について調べてみた。

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大恩人をあまり褒めなかった渋沢

 平岡は慶喜とともに公武合体を進め、攘夷じょういの志士と対立したが、倒幕を企てて幕吏に追われていた渋沢栄一(1840~1931)を一橋家の家臣に取り立て、窮地から救っている。だが、意外なことに渋沢は、その大恩人をあまり褒めていない。渋沢の談話集『実験論語処世談』の中で渋沢は円四郎について「一を聞いて十を知ることができる数少ない人だった」と述懐した上で、こうつけ加えている。

 「一を聞いて十を知るというのも、学問なら格別だが、一概に結構な性分とは言えない。(中略)こういう性格の人は自然と他人に嫌われ、往々にして非業の最期を遂げたりするものだ。平岡が水戸浪士に暗殺されてしまったのも、一を聞いて十を知る能力にまかせ、あまりに他人の先回りばかりした結果ではなかろうか」

 同書の別のくだりでは、「平岡が非凡の才識を有していたのは間違いないが、人を鑑別する鑑識眼は乏しかった」とも評している。自分を一橋家の家臣にしたのも、「まだ若いのに殺されてしまうのは可哀かわいそうだから助けてやろうくらいのことで、私をて大いに用いるべしとしたからではなかろう」と少々手厳しい。他の史料も円四郎を「人づきあいが下手で、独りよがり」と評している。どうやら堤真一さんが演じた「懐が深く、部下思いの人情家」のイメージとは少し異なる。

優れた行政官だった円四郎の実父と養父

 幕末の動乱下では先を見るとともに、味方を増やす交渉能力が不可欠なはずだ。英名を博した慶喜は、なぜ円四郎を好み、家老格で重用したのか。実は慶喜と円四郎が結びついた裏には、それぞれの実父の思いがあった。

 平岡円四郎は、旗本の岡本忠次郎(1767~1850)の四男に生まれ、天保9年(1838)16歳でやはり旗本の平岡家の養子となっている。忠次郎は「花亭」の別名で漢詩を詠んだ文化人として知られるが、優秀な行政官でもあった。

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平岡円四郎の実父、岡本忠次郎。円四郎を描いた肖像画は残っていないといわれている(『近世名家肖像図巻』国立国会図書館蔵)

 勘定奉行の下僚から天保8年(1837年)に信濃・中野(長野県中野市)の代官に抜擢ばってきされた忠次郎は、その翌年、領地に冷害が起きると、幕府に掛け合って下賜金を得て、領民に分配している。江戸城の火災で幕府から復旧費の要請が来た時には、領民から2700両を集めている。領民をしっかり掌握できていたことがうかがえる。

 越後・水原(新潟県阿賀野市)と会津・田島(福島県南会津町)の代官を兼ねていた養父の文次郎も、越後と会津を結ぶ山岳ルート「八十はちじゅうごえ」を馬が通れる道に整備・拡充したことで知られる。名代官として領民に慕われ、平岡の転出が決まると、農民代表が江戸にのぼって平岡の留任を訴えたという。

 忠次郎と文次郎はともに幕府と領民の間に立つ中間管理職だった。政策や領民掌握術の情報交換をする仲だったのかもしれない。実父と養父の行政官としての才覚に接した円四郎は、旗本や御家人の子弟が集まる昌平坂学問所の「学問所寄宿中頭取」、つまり学生寮の寮長に就職した。学問所の選抜は実力主義で、成績優秀者は幕府の要職に登用される。全国から集まる向学の士とともに見識を高め、ふたりの父のようになる夢を抱いていたのではないか。

慶喜の人物にほれ込み、側近に

 だが、学問所に集まるのは出来のいい子弟ばかりではなかった。人づきあいが苦手な円四郎には、さほど向学心もない「箱入り息子」のお世話は相当苦痛だったようだ。円四郎はわずか2年で「武術鍛錬のため」と称して学問所を辞め、10年近く定職にもつかず、親を心配させる。だが、夢をあきらめたわけではなく、勘定所への就職を目指し、今でいうアルバイトのような形で町方与力のアシスタントをしていたという。

 『青天を衝け』の時代考証を担当している東北公益文科大学准教授の門松秀樹さんによると、高い筆記・計算能力が求められる勘定所は、家格に関係なく能力があれば出世できる数少ない役所だった(『明治維新幕臣』)。実力主義の世界にいればおべっかや忖度そんたくは必要ない。人づきあいが下手なら、能力をつければいい、と考えたのだろう。

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円四郎の実父、岡本忠次郎(『近世名家肖像図巻』国立国会図書館蔵)

 今は、十を知るために百どころか万の情報に接することができる。だが、取捨選択に費やせる時間は短く、先回りして判断を求められることも多い。情報の洪水から何を選び、何を選ぶべきではないか、人生の師と同時に反面教師を見つけられなければ、不昧因果の小車に取り込まれてしまいかねないのは、今も昔も変わらない。

 

 

 

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感染症にかかった為政者はどう動いたか

 コロナ禍が一向に収まらない。菅首相は7月末までに高齢者のワクチン接種を終わらせる方針だが、ワクチン供給の遅れや予約システムの不備などの不手際が相次ぎ、内閣支持率は低迷が続いている。

 国会議員がパーティーを開いたり、夜の会合に出席したりした事実が発覚するたびに「自粛をお願いしておきながら、なぜ自分は守らないのか」という批判の声が上がる。国民に自粛を求め、ワクチンを行き渡らせることを最優先すべき立場にいる人が、自粛を迫られ、ワクチン接種を望む国民のことを本当に最優先に考えているのか、「統治者としてのモラル」が問われている。

 過去の感染症の大流行で、対策の陣頭指揮に立った為政者はどのように動いたのか。特に注目したいのは、自身や親族が感染症にかかった統治者の行動だ。自ら感染症の恐怖に直面した時こそ、為政者のモラルが試されると思う。

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  •  麻疹と赤痢…死を悟り、出家した北条時頼
  • 「民が苦しんでいるときにぜいたくはできない」
  •  天然痘ワクチンを後押しした藩主
  • 原敬にインフル感染の後遺症?
  • 国民の不安を取り除く努力を

 麻疹と赤痢…死を悟り、出家した北条時頼

 鎌倉幕府5代執権の北条時頼(1227~63)は建長8年(1256)、麻疹(はしか)と赤痢にかかっている。一時は陰陽師おんみょうじが死者をよみがえらせる秘術を施す「泰山府君たいざんふくんさい」まで行われるほど重篤な状況に陥った。当時、麻疹は赤斑瘡あかもがさと呼ばれ、感染力が強力で致死率が高い深刻な病だった。

 死を悟った時頼は、執権職や邸宅を義兄に譲って、その翌日に出家した。だが、出家後に病は癒えた。回復した時頼は、粗末な格好に身をやつして諸国を遍歴し、民の救済に努めたという「廻国かいこく伝説」がある。水戸黄門のような話だが、「いざ鎌倉」の語源となった能の演目「鉢木はちのき」の話は特に有名だ。

 上野こうずけ群馬県)の佐野で大雪にあって立ち往生した時頼は民家に泊めてもらう。家の主人は僧が時頼とは知らぬまま、まきが尽きると大切にしていた梅と桜と松の鉢の木を火にくべて時頼をもてなす。主人は「今は領地を横領されて落ちぶれているが、鎌倉で事変があれば誰より先に駆けつける」と語る。後に時頼は関東八州の武士に召集をかけ、約束通り鎌倉に駆け付けた主人の領地を回復させた上に、梅、桜、松の鉢植えにちなんで加賀国(石川県)梅田庄、越中国富山県)桜井庄、上野国松井田庄に新たな領地を与えたという。

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鉢の木を薪にしようとする主人(左)を見つめる時頼(右)(『芳年武者无類 相模守北条最明寺入道時頼』 国立国会図書館蔵)

「民が苦しんでいるときにぜいたくはできない」

 時頼は北条氏に敵対する三浦氏を滅ぼす(宝治合戦)など北条本家の勢力拡大に努め、病で執権を退いてからも幕府の実権を握り続けて、本家の当主(得宗)の専制政治を始めたとされる。麻疹や赤痢への感染は出家の口実に過ぎないという見方もあり、諸国遍歴も実際にはしていないとみられる。

 では、なぜこんな美談が残っているのか。それは、時頼が建長5年(1253)に民を労われと命じた「撫民ぶみん令」や、農民から田畑を取り上げることを禁じるなどの農民保護策をとったからだろう。

 時頼は「酒は害がある」として「一屋一壺制」で酒の醸造量を制限し、自らも台所の味噌みそだけをさかなに質素な「家飲み」をしていたという。家飲みは質素倹約のためで感染対策ではないが、感染症飢饉ききんで民が苦しんでいるときにぜいたくはできないと考えたのは史実とみられる。

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台所の味噌で酒盛りをする時頼(菊池容斎前賢故実国立国会図書館蔵)

 鎌倉時代御家人救済策として有名な徳政令については以前にも取り上げたが、撫民令は徳政令より前に出されている。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「時頼の撫民政策は荒くれ者・収奪者だった武士が、民衆の利益を優先する統治者へと変化した意識改革の重要な転機だった」と評価している。

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