今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

もう少し時間があれば…明治の偉人に絶賛された小栗忠順

 NHK大河ドラマ「青天をけ」で、もう少し長く見たかった人物がいる。東征軍(後の新政府軍)との徹底抗戦を唱えて 罷免ひめんされ、領地だった上州権田村(現在の群馬県高崎市)で理不尽に殺害された 小栗おぐ上野介こうずけのすけ忠順ただまさ(1827~68)だ。

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渋沢栄一より早く1万円札の顔になっていた?

 ドラマで武田真治さんが演じた小栗は、外交、通商、行財政改革から金融政策、産業振興など非常に多岐にわたって改革や近代化を成し遂げた。大隈重信(1838~1922)は、「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と語り、福沢諭吉(1835~1901)も「鞠躬尽瘁きっきゅうじんすい(国のために命をかけて尽くすこと)の人」と小栗をたたえている。

 小栗は日本初の政府(幕府)公認の兌換だかん紙幣である「江戸横浜通用金札」の発行にも携わっている。もう少し長生きしていれば、福沢や渋沢栄一(1840~1931)より先に1万円札の顔になっていたかもしれない。

「いずれ」ではなく「すぐに」

 さらに小栗のすごいところは、幕末の動乱のさなかだったにもかかわらず、多くを計画倒れに終わらせず、明治新政府に引き継いでいることだ。

遣米使節の3人。右が目付の小栗。左が副使の村垣範正、中央は正使の新見正興
(『幕末・明治・大正回顧八十年史』国立国会図書館蔵)

 安政7年(1860年)には遣米使節目付(監察)として渡米した。明治維新の前後には多くの日本人が欧米に渡り、欧米との国力の差にショックを受けているが、小栗は国力の差に臆さずに、「なぜこんなすごいものを作れるのか」「必要な資金はどうやって集めているのか」まで調べあげ、「いずれ」ではなく「すぐに」日本に取り入れようとした。

ホワイトハウス米大統領に国書を奉呈する小栗ら
(ニューヨーク絵入新聞『幕末・明治・大正回顧八十年史 第2輯』国立国会図書館蔵)

 フィラデルフィア造幣局で行われた日米の通貨交換比率見直しの交渉では、日本の小判とアメリカ金貨の銀の含有量を分析するよう強硬に求め、日米修好通商条約で日本側が呑まされた交換比率が不当なことを認めさせている。タフ・ネゴシエーターぶりを発揮した小栗はアメリカの新聞に絶賛された。

ワシントン海軍工廠を視察した遣米使節。前列右から2人目が小栗
(『幕末・明治・大正回顧八十年史』国立国会図書館蔵)

抜きんでた才覚で「お役替え70回」

 帰国した小栗は外国奉行となり、文久元年(1861年)にロシア軍艦が対馬長崎県)を占領した事件の処理交渉を任されたのを手始めに、勘定奉行江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行とし難題の解決に奔走する。

 問題の先送りを嫌う小栗は、老中ら上層部に抜本改革を直言し、却下されると職を辞して閑職に退くが、難題に対処できる人材は他になく、すぐ呼び戻される。目まぐるしい経歴の変更は「小栗さんのお役替え70回」と揶揄やゆされたが、それは小栗の抜きんでた才覚の表れでもあった。

小栗は日本初の西洋ホテル「築地ホテル」にも携わった(国立国会図書館蔵)

今の中国と同じ「債務の罠」を見抜く

 安政6年(1859年)に開港した横浜では、日本の商人が競って生糸や茶、海産物などを外国商館に売り込んでいだ。外国商館は最初だけ高値で買ってもうけさせ、2回目以降は安値でしか買わず、あてが外れて大量の在庫を抱えた日本の商人に「前貸し(借金)」を持ちかけていた。

 融資を受けた日本の商人はその資金を生糸や茶などの生産者に前貸しし、生産者を「前貸し支配」と呼ばれる手法で借金漬けにして支配下に置こうとした。中国が「一帯一路構想」を進めるなかで「途上国を借金漬けにして支配しようとしている」とよく批判されるが、「債務の罠」にはめる点では同じ手法だ。

 小栗はこの問題に気付き、「国益会所」をつくって日本の商人を組織化し、外国商館に入札で売却しようとした。国益会所による管理は、幕府が瓦解するなどした影響で失敗する。小栗にもう少し時間があれば、と悔やまれる。

濡れ衣着せられ理不尽な最期

 最後に官軍との徹底抗戦を唱え、恭順の道を選んだ主君の徳川慶喜(1837~1913)にすべての職を罷免された小栗は、アメリカへの亡命の勧めも断り、領国だった群馬県権田村に隠遁した。だが、官軍は軍資金を江戸城から運び出し、反乱を企てていると疑い、無抵抗の小栗を捕えて、裁判もせぬまま斬首した。小栗の才覚を恐れ、濡れ衣を着せて抹殺したに等しい。 

 「官賊」のレッテルを貼られたことは、その後の小栗の評価にも影響した。日本初の株式会社は坂本龍馬(1836~67)がつくった「海援隊」であり、遣米使節として海を渡ったのは勝海舟(1823~99)率いる咸臨丸かんりんまるだと思っている人が多い。しかし、役員や定款を備えた結社の設立は兵庫商社の方が早く、咸臨丸は遠洋訓練もかねて小栗ら遣米使節が乗ったポウハタン号に随行しただけだ。

 小栗の菩提寺、東善寺には小栗の日記も残されているが、記録はいたって簡潔で、幕府や新政府への思いや日本の将来への考えについての記述は見当たらない。目先の改革に忙しくて先々のことを書く時間がなかったのではないか。ここでも、小栗にもう少し時間があれば、と悔やまれる。

 小栗の功績のうち、横須賀造船所’(製鉄所)については別稿にまとめたので、こちらもお読みいただきたい。

※2023年4月に改稿しました。

 

 

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