第34期竜王戦七番勝負で藤井聡太三冠が4連勝し、竜王のタイトルを奪取した。史上最年少の19歳3か月で四冠を達成した藤井新竜王は、棋士の序列を示す席次でも1位となった。
日本の将棋の歴史に刻まれる出来事を機に、日本の将棋1000年の歴史を振り返った。
読売新聞オンラインのコラム本文
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シンプルになって公家から武士、庶民へ
将棋の歴史を振り返ると、好敵手の名勝負が発展を支えてきたことがわかる。日本に将棋が伝わった時期ははっきりしないが、囲碁の方が数世紀早かったといわれている。奈良県の興福寺から天喜6年(1058年)の木簡とともに将棋の駒が出土しているから、11世紀には貴族たちに広がっていたようだ。
だが、このころ貴族が指したのは駒数100枚以上の「大将棋」とみられ、その後「中将棋」(駒数92枚)、「小将棋」(駒数46枚)と、時代が下るにつれて駒数が減り、シンプルになるにつれて公家から武士、さらに庶民へと将棋が広がっていった。
日本独自の「再利用」で高度な頭脳ゲームへ
今の駒40枚の将棋スタイルが確立したのは戦国時代末期とみられる。取り捨てだった駒の再利用を認めたことで、将棋は複雑でほぼ無限に局面が変化する奥深い頭脳戦に昇華していく。
チェスにも中国や朝鮮の将棋にもない駒の再利用ルールが日本の戦国時代に始まった理由について、将棋史研究者の山本亨介(1923~95)は、勝者が敗者を皆殺しせず、配下に加えて勢力の増強をはかる日本の合戦の思想が背景にある、と分析している(『将棋文化史』)。
芸事となり家元制へ
駒の再利用で囲碁とともに高度な頭脳が必要な「芸事」となり、指し手の地位は向上していく。江戸時代には幕府公認となって家元制が導入されるのだが、そのきっかけとなったのが将棋の家元「大橋家」の始祖、初代大橋宗桂(1555~1634)と、京都寂光院の塔頭・本因坊を拠点に活躍した僧、日海(のちの本因坊算砂、1559~1623)の対局だった。
碁打ちは将棋指しを兼業していた
「本因坊」というと囲碁を思い浮かべるが、日海は将棋も強かった。徳川幕府は慶長17年(1612年)に「碁打ち、将棋指し衆」8人に俸禄を与えているが、日海は囲碁と将棋のトップである「碁将棋所」を兼務していたとされる。
「碁所」「将棋所」という役職は正式な組織ではなかったようだが、宗桂と日海は対局以外にもさまざまな機会を使って将棋の腕を幕閣や公家などに売り込み、幕府から俸禄を勝ち取っていた。
家元制ができた後も、初代宗桂が没すると、在野の強豪が大橋家にとってかわろうと次々に対局を求めてきた。家元は勝ち続けてこうした挑戦を退けなければならず、日々鍛錬が求められた。安易な世襲は許されず、棋力がなければ容赦なく切られ、外部の優秀な人材や門弟が養子に入って後を継ぐ実力主義が貫かれていた。
日海の本能寺の対局で起きた珍事
将棋からは少し外れるが、織田信長(1534~82)は囲碁が好きだった。天正10年(1582年)の本能寺の変の前夜にあたる6月1日夜、本能寺に招かれた日海は、信長が見物する中で本能寺の僧、利玄(1565~?)と対局している。その時に1万局に1回出るか出ないかと言われる「三劫」という将棋でいう千日手のような局面が出たという逸話がある。
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『爛柯堂棋話』によると、見物していた人々は珍事に驚いたが、深夜に両僧が本能寺を辞して半里ばかり行ったところで陣太鼓が鳴るのを聞いた。明智光秀(?~1582)の謀反だった。それ以降、「三劫」は不吉のしるしとされたという。
将棋家元の血を吐くような熱戦や、将軍家と将棋のかかわり、歴代将軍で最も強い棋士は誰かといった話は、コラム本文に詳しく記したのでお読みいただきたい。藤井四冠も体を削るような棋士人生が続くだろう。どこまで強くなるか期待しつつ、どうか体に気をつけてと申し添えておく。
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