今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

いたずらは許されないお盆最後「京都五山の送り火」の伝統とは

 8月16日夜、「京都五山送り火」が行われる。お盆(=盂蘭盆うらぼんえ)」の最終日に精霊を送り出す仏教行事で、祖霊(お精霊さん)を再び浄土(死後の世界)に送る火を灯す。過去2年は新型コロナ感染対策として規模を縮小して実施したが、今年は3年ぶりにすべての火床で点火が行われる。

「お盆」の歴史については、以下のコラムをお読みいただきたい。

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  • 送り火の起源ははっきりしない
  • 戦勝祝いで点灯、「Z」の文字も
  • 令和の「勝手に大文字」犯人は不明のまま

送り火の起源ははっきりしない

 五山送り火の起源ははっきりしないが、戦国時代に盛んに行われた万灯会まんとうえが山腹で行われるようになったという説がある。織田信長(1534~82)が天正9年(1581)の盂蘭盆会の夜、安土城を提灯などでライトアップして、宣教師をあっと言わせた逸話は有名だが、この催しも万灯会の催しのひとつだったとされる。

五山の送り火の風景(『東山名所図会』国立公文書館蔵)

 江戸時代前期には、ほぼ今の形で行われるようになったとみられ、公家の舟橋秀賢(1575〜1614)の日記『慶長日件録』の慶長8年(1603)年7月16日の条に「晩に及び冷泉亭に行く 山々灯を焼く 見物に東河原に出でおわんぬ」とある。寛文年間には「船形」「大文字」「鳥居」や「左大文字」が点火されたという記述がある。

 現在では如意ヶ嶽の「大文字」のほかに、松ケ崎にある西山・東山の「松ケ崎妙法」、妙見山の「船形万燈籠」、大文字山の「左大文字」、そして仙翁寺山の「鳥居形松明」が灯される。江戸時代後期には市原野の「い」、鳴滝の「一」、西山の「竹の先に鈴」、北嵯峨の「蛇」、右京区観音寺の「長刀」などもあったという。

 起源とされる時期はそれぞれの送り火によって平安時代初期から江戸時代初期までさまざまだが、いつから、なぜこの文字やマークが描かれるようになったのか、伝承以外の確かな記録はほとんどない。 

京都五山送り火で、夜空に浮かび上がった「大」の文字

戦勝祝いで点灯、「Z」の文字も

 だが、長い歴史を持つ「五山の送り火」は明治以降、お盆と関係なく点火されたことがよくあった。明治時代には琵琶湖疎水の竣工や日清・日露の戦勝祝いなどで何度かお盆以外の時期に点火されている。

 昭和51年(1976年)2月には大物ロック・アーティストのフランク・ザッパ京都大学西部講堂で公演を行う直前に、京大のザッパ・ファンらが懐中電灯を使って夜の京都に「Z」の文字を浮かび上がらせる「ザッパ焼き」を行っている。

 翌日に新聞などで取り上げられて話題となり、チケットは完売。ザッパ自身もたいそう喜び、アルバム『虚飾の魅惑』のライナーノーツにもこの話が登場する。ザッパ焼きを呼びかけたのはザッパを日本に呼んだ当時イベントプロデューサーの木村英輝さんとされる。木村さんは大文字保存会から抗議されたが、「大」の字ではなく、懐中電灯なら許されると思っていたようだ。

 2022年に「Z」の字を描いたら、ウクライナ侵略を祝う気か」と強烈な批判が集まっただろう。時期とともに描く文字には実行者のメッセージが込められる。パロディやいたずらはご法度なにだが、その後も如意ケ嶽に登っていたずらしようとするいたずらはあったようで、「『大』の字が『犬』『太』になった」という真偽不明の話も残っている。

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コロナ禍3年目の夏に考える「お盆」の意義

  

 新型コロナウイルスの感染拡大「第7波」が勢いを増す中で、日本最大の民族大移動の時期「お盆」の週がやって来た。今年は行動制限のない久しぶりの夏。東北では大雨被害が心配されたが、3年ぶりの「三大祭り」が始まった。

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  • 太陽暦の採用でスライドしたお盆
  • 旧暦にも戻さず「中暦」が定着
  • インドの「逆さ吊り」が起源
  • さらに終戦の日が加わって...、
  •  新たな生活様式にあわせたお盆

太陽暦の採用でスライドしたお盆

 諸説はあるが、コラム本文では「東北三大祭り」の起源はいずれも「七夕」で、七夕はお盆の行事の一環だったという説が有力だと紹介した。

 お盆が8月13〜16日に行われるようになったのは、今の暦(太陽暦)が採用された明治6年(1873年)以降。それまでは旧暦(太陰太陽暦)の7月15日に行っていた。旧暦と新暦とを同じ日とみなしてスライドさせたわけだが、太陽暦7月15日(つまり、今の7月15日)は農繁期で、学校も休みではなく、特に農村では大人も子どもも行事の準備をする余裕がなかった。1か月遅れの8月15日なら農作業もひと息つき、行事がしやすい。都市部でも工場の操業を一斉に止めて、子どもの夏休みに合わせて同時に休めば帰省ができる。お盆休みは製造業、つまり工場中心の日本の産業モデルにもあっていた。

 月遅れのlお盆はこうして定着していくが、お盆と七夕は一体的な行事なのだから、お盆を衝き遅れにするなら、七夕も月遅れの8月7日に行うようにすべきだったのかもしれない。

旧暦にも戻さず「中暦」が定着

 中国など東アジアでは太陽暦を採用しても年中行事は旧暦にあわせて行うのが普通で、例えば正月は日本では太陽暦の1月1日に祝うが、中国では旧暦の1月1日(春節)に祝う。これは法律などで決められたわけではない。では、旧来通り旧暦の7月15日にお盆の行事を行えばいいかというと、それも難しかった。旧暦の7月15日は今の暦では年によって8月前半から9月前半までの異なる日となるから、毎年行事の時期がずれてしまう。

 実際に正月を春節で祝う中国など東アジアの国では、毎年正月休暇の時期がずれている。これらの国は旧暦を併用することによるずれを受けいれているが、日本は、年中行事を西洋の合理主義(製造業中心の成長モデル)にあわせて旧暦を捨て、お盆の中日が毎年代わることがないように、8月のどこかに決める流れになった。太陽暦の採用以降にお盆については「中暦(月遅れ)」が普及したのは、日本ならではの事情もあると思われる。

 なお、日本が太陽暦を採用した経緯については、別のコラムでも詳しく記している。 

インドの「逆さ吊り」が起源

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 そもそも仏教行事の「盂蘭盆」はサンスクリット語の「ウラバンナ(逆さ吊り)」が語源とされる。亡き母が極楽に行けずに地獄で逆さ吊りにされていることを知った弟子が、釈迦から「夏の修行が終わった7月15日に僧侶を招き、多くの供物をささげて供養すれば母を救うことができる」というアドバイスを受け、実行したのが始まりという。

 語源は古く、由緒正しい行事ということがわかる。この盂蘭盆会の行事が日本の祖霊信仰と融合し、旧暦の7月15日⇒新暦の8月15日に日本独自のお盆の風習ができていった。

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加来耕三さん、中西悠理さんと対談 歴史を学ぶ醍醐味とは

 読売新聞本紙の広告企画で、歴史教養番組「偉人・素顔の履歴書」(BS11、毎週土曜日午後8時放送)に出演中の歴史家、加来耕三さんと番組MCの中西悠理さんと対談してみませんか、と誘われて、ふたつ返事で引き受けた。番組を見ていただけでなく、加来さんの著書の何冊かには目を通し、コラムのヒントもいただいている。才媛の中西さんも「歴史を勉強中」とはご謙遜、新鮮な視点が面白かった。

 対談をまとめた広告には収容しきれない面白い話がほかにもたくさんあった。もったいない! お二人の許可をいただき、コラム番外編として公開することにした。なお、話の内容に合わせて発言の順序などは再構成している。

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13人が出そろった直後に13人ではなくなった「鎌倉殿の13人」 

 北条義時が主人公のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、大泉洋さんが演じた源頼朝(1147~99)が退場し、後半戦に入った。タイトルの「鎌倉殿」は鎌倉幕府の将軍で、「13人」は頼朝の死後、若くして後継者となった2代将軍の源頼家(1182~1204)を支えた宿老を指すことは改めてドラマの中で説明された。

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  • 13人がようやく出そろった
  • 13人の人選をしたのは北条時政
  • 13人が一堂に会した記録はない
  • 1年ももたずに崩壊した合議制

13人がようやく出そろった

 ドラマ開始時に公開したコラムでは、13人のうち3人の配役が決まっていなかった。ようやく出そろったので一覧を手直ししたうえで改めて掲示しておく。13人の生没年とドラマでの配役は表に記したので文中では表記しない。

 ドラマの中世軍事考証を担当する戦国史学者の西股総生さんは「鎌倉軍事政権の誕生 軍事政権の試練」と題した最新の論考のなかで、13人を頼朝の挙兵当初からのグループ(旗揚げ組)、一度は敗れた頼朝が房総に逃れ、勢力を回復してから帰参したグループ(後乗り組)、幕府の実務を担わせるため京から招いた下級貴族(文官組)に3分類し、旗揚げ組が5人、後乗り組が4人、文官組が4人となっていることを指摘する。

 また、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは『北条氏の時代』のなかで、出身地のバランスに注目している。頼朝は幕府の拠点・鎌倉を囲む位置に所領を持ち、箱根権現や伊豆山権現を信仰していた伊豆(静岡県)、駿河(同)、相模(神奈川県)、武蔵(埼玉県など)の4か国の出身者を重用しており、それが人選にも反映されたというのだ。

 13人のうち京都出身の文官組4人を除いた9人の出身地は相模が3人、武蔵が2人、伊豆が2人、下野(栃木県)が1人(安達盛長の出身地は不明)。確かに実力では13人より上位の房総の千葉氏や北関東の小山氏など、複数の有力な御家人が含まれていない。

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安倍元首相の殺害を過去6人の宰相殺害から考える

 奈良県参院選の街頭演説中だった安倍晋三元首相が凶弾に倒れた。憲政史上最長の在任記録を持ち、首相退任後も自民党最大派閥の領袖りょうしゅうだった政界の中心人物が、選挙期間中に銃殺された衝撃は大きい。

 銃撃したのは奈良市に住む無職、山上徹也容疑者。立場や主張の違いを超えて、与野党や言論界、メディアなどが一斉に「卑劣な言論封殺は断じて許されない」と声を上げ、凶行を非難した。今回の事件が民主主義後退のきっかけになってはならないからだ。 

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  • 戦後初めて首相経験者の殺害が起きてしまった
  • 過去の動機も必ずしも明らかではない
  • 「民主主義の危機」は大袈裟ではない

戦後初めて首相経験者の殺害が起きてしまった

 現職の首相や首相経験者が襲撃されて命を落としたのは戦後初めてだが、戦前には6人の現職首相や首相経験者が殺害されている。それぞれの事件の衝撃は時代の「空気」を変え、民主主義政治は後退し、その後の日本の歩みに大きな影響を与えている。

コラム本文では6人の宰相(首相経験者)が殺害された事件を当時の読売新聞紙面とともに振り返っている。五・一五事件で殺された犬養と、二・二六事件で殺された斎藤、高橋は、軍の青年将校らが一斉に決起した組織的クーデター(未遂)で、それ以外の事件や今回の安倍元首相殺害とはかなり態様が異なる。ただ、殺害動機やその後の展開を見ると、これらの事件にはいくつかの共通点もある。

 

" 戦前に殺害された6人の首相経験者。左上から時計回りに伊藤博文原敬浜口雄幸高橋是清斎藤実犬養毅(いずれも国立国会図書館蔵)

 コラム本文で詳しく紹介しているが、いくつかの事件に共通点を順不同であげてみると、以下のようになる。

1、犯人は殺害によって社会に衝撃を起こし、自らの主張を広く伝播させようとした思想犯である(伊藤、犬養、斎藤、高橋殺害のケース)

2、殺害相手に対して恨みを持っていない(伊藤、原、浜口、犬養、斎藤、高橋殺害のケース)

3、なぜ首相経験者を殺害しなければならなかったのか、多くの人が納得できる理由がない(原、浜口殺害のケース)

4、凶器が銃だった(伊藤、浜口、犬養、斎藤、高橋のケース)

5、犯人に対する同情論が高まり、助命嘆願運動が起きている(犬養殺害のケース)

6、逮捕後の取り調べや裁判で犯行動機の追求が不十分で、背後関係が明らかにならなかった(原、浜口殺害のケース)

7、犯人(または組織の主犯格)が実刑服役後に出所し、戦後も政治的活動を続けている(原、浜口、犬養殺害のケース)

安倍元首相
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選挙の後に不要論…参議院はなぜ必要とされたのか

 参議院議員選挙は、当初の予想通り与党の大勝という結果となった。選挙戦の終盤戦で安倍元首相が狙撃され死亡するという予期せぬ事件が起きたが、選挙結果には大きな影響を与えなかったようだ。

 当選した議員の顔ぶれを見て、SNSには「参議院不要論」を説く人が増えているのは、やや不思議な気がする。当選した人が議員にふさわしいかどうか、議論するのは構わないが、当選者は不正をしたわけではない。筆者は参議院不要論を否定する気はないが、良くも悪くもこれが民意である以上、「こんな人が当選するなら参議院はいらない」というのは筋違いだろう。 

 参議院が「衆議院カーボンコピー」とやゆされ、存在意義を問う声が出ていたのは最近のことではない。なのに参院各会派でつくる参院改革協議会は今年6月、改革を選挙後に先送りしている。今度こそ改革議論に真剣に向き合わなければ、参議院不要論はますます広がるだろう。

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 貴族院に代わって戦後に設けられた参議院は、なぜ必要とされたのか。そもそも、なぜ「参議院」なのか。議員たちが「議論に参加する」だけえなく、真剣に改革に向き合っているかどうかを確認するためには、参議院誕生の歴史を知っておくべきだ。

「議論に参加する」から参議院

 なぜ参議院が必要なのか。この問いに対する答えは、よく「衆議」「参議」の言葉の意味から説明される。「大勢の人(衆)が集まって議論する」衆議に対し、参議は文字通り「議論に参加する」こと。大衆の代表が議論する衆議院とは異なる目線で議論に参加し、それだけでなく衆議院の行き過ぎや見落としをチェックするから参議院。国民に代わって議論する「代議士」が衆議院議員だけの別名なのも、参議院が「良識の府」「再考の府」と呼ばれるのも、このためだ。

 日本政府の憲法改正作業のなかで初めて「参議院」の名前があがったのは、昭和20年(1945年)12月、幣原喜重郎(1872~1951)首相が憲法学者松本まつもと烝治じょうじ (1877~1954)を委員長として発足した憲法問題調査委員会(松本委員会)での議論の場だった。委員会に出された大日本帝国憲法の改正試案では「公議院」「元老院」「審議院」など、実にさまざまな名前が提案され、「参議院」はそのうちのひとつだった。

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名将というより優秀な経済官僚だった河井継之助

 コロナ禍の影響などで公開が3度も延期された映画『峠 最後のサムライ』が公開された。原作は司馬遼太郎(1923~96)の同名小説で、主人公は役所広司さんが演じる越後(新潟県)長岡藩の家老、河井継之助(1827~68)。戊辰ぼしん 戦争のなかでも最大の激戦とされる北越戦争で、数に勝る新政府軍をさんざん苦しめた幕末の風雲児だ。映画を観たうえで、継之助の決断について考えてみた。

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  • 非戦から開戦に…藩内は一枚岩ではなかった
  • 藩政改革で戦力を過信?
  • 継之助は名将ではなく能吏だった
  • 職業訓練格差是正…いまでも通用する経済政策
  • 焦土、朝敵となった長岡藩を引き継いだ2人

河井継之助河井継之助伝』国立国会図書館蔵)

非戦から開戦に…藩内は一枚岩ではなかった

継之助は旧幕府軍会津藩など東北諸藩軍(映画では東軍)にも新政府軍(同じく西軍)にも くみしない「非戦中立」を掲げるが、その願いがかなわないと知ると、藩をあげて新政府軍と戦う道を選ぶ。一度は失った長岡城を奪還するなど善戦するが、数で勝る新政府軍の反撃を受けて敗走し、会津に逃れる途中に戦いで受けた傷が悪化して力尽きる。

 映画は司馬の小説通り、継之助を誇り高きサムライとして描く。しかし、継之助が戦う道を選んだ結果、長岡は焦土と化し、多くの領民が命を失い、家を焼かれた。原作も映画も描いていないが、戦いの最中には戦争継続に反対する藩内の農民が一揆をおこし、少なからぬ藩士が継之助と たもとを分かち、新政府軍に投降している。

 司馬は「新政府軍に恭順しても会津との戦いの先兵に回されるだけだった」と説明しているが、同様の立場に追い込まれた仙台藩は、あらかじめ会津と示し合わせて戦うふりをして窮地をしのいでいる。

藩政改革で戦力を過信?

 歴史家の安藤優一郎さんは著書『河井継之助』のなかで、継之助が開戦に転じたのは継之助の「過信」が原因、と分析している。藩政改革による富国強兵に成功した継之助が藩の自衛力に自信を持ち、自分なら新政府と会津の和解も周旋できると過信した、というわけだ。

 開戦直前、新政府軍と長岡藩軍がにらみ合う中で行われた 小千谷おじや・慈眼寺での談判で、河井は新政府側の軍監、岩村精一郎(1845~1906)を相手に「今は内戦で国土を疲弊させる時ではない」と力説し、自分が新政府と会津の和平を取り持つと申し出た。

 精一郎は全く聞く耳を持たず、総督府への嘆願書の取り次ぎも拒んだことはのちに非難される。だが、精一郎は「談判で継之助は 傲然ごうぜん たる態度を取り、議論で圧服しようとした」と釈明している。若い精一郎を議論で打ち負かそうとしたなら、自らの力を過信した継之助にも非があったことになろう。

継之助は名将ではなく能吏だった

 実は継之助は名将としてより、経済官僚としての手腕の方が際立っているのだが、映画では戦争以前の継之助の活躍をほとんど描いていない。

山田方谷(『河井継之助伝』国立国会図書館蔵)

 継之助は、不遇の時代に備中(岡山県松山藩の財政を立て直した陽明学者の山田 方谷ほうこく (1805~77)から、財政再建の極意を学んでいた。方谷から学んだ藩政改革の極意は「規律を整え、賄賂や 贅沢ぜいたく を戒め、倹約により質素な生活を奨励する」。一見すると 手垢てあか が付いた手法に見える。しかし、継之助は方谷の教えをさらに進化させ、今でも通用する政策を導入している。

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