今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞編集委員  丸山淳一

後白河法皇は「日本一の大天狗」ではなかった?

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の6月5日放送回「義時の生きる道」で、西田敏行さんが演じた後白河法皇(1127~92)が天寿を全うした。ドラマでは通説に従って大泉洋さんが演じる源頼朝(1147~99)が、法皇を「日本一の 大天狗おおてんぐ」と呼んだエピソードが紹介された。

後白河法皇(出典:ColBase<https://colbase.nich.go.jp/>一部加工)


 頼朝が
法皇を「日本一の大天狗」と評した話は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』などにも登場するが、本当に頼朝は法皇を「大天狗」と呼んだのかどうかについての学説は割れている。背景には、「治天の君」としての法皇の政治手腕に対する評価の違いがある。

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法皇=大天狗」の通説はどのように生まれたのか

 後白河法皇は文治元年(1185年)、ドラマで杉本哲太さんが演じた源行家(1140?~86)と源義経(1159~89)に頼朝追討の 院宣いんぜん(命令書)を出す。しかし、義経の旗色が悪いと知るとこの命令を取り消し、逆に頼朝に義経追討の院宣を出す。

院御所に参内する義経(『日本歴史図会』国立国会図書館蔵)

 頼朝の怒りを恐れた院の近臣で大蔵卿おおくらきょうだった高階泰経たかしなのやすつね(1130~1201)は鎌倉に弁明の使者を出す。使者は鎌倉に着くと、頼朝の妹を妻にしていた公家の一条能保(1147~97)に「弁明の席に同席し、頼朝が怒ったらなだめてほしい」と頼み込んでいる。こんな弁明では頼朝は到底納得しないだろうことはわかっていたのだろう。以下は『吾妻鏡』11月15日の条に記された弁明の内容だ。

 「行家と義経の謀反を許可したのは、天魔に魅入られた仕業だ。(2人は)もし(頼朝追討の)院宣が下りなければ、宮中で自殺すると言ってきた。(宮中がけが されるという)災いを逃れるために一度は(追討の)許可を出したが、本心は別なので、本当の許可はしていないのと同じなのだ」

 案の定、頼朝は激怒し、使者を罵倒する。

 「謀反を許可したのは天魔に魅入られたとは、これほど根も葉もない言い訳はない。天魔とは仏法を守るために悪鬼を防ぎ、道理の分からない者を抑えるものだ。私(頼朝)は朝廷に敵対した平家を降伏させ、年貢の徴収などで朝廷に忠実に奉仕している。それをなぜ反逆者扱いして、よく院の意向を確認せず、(頼朝追討の)院宣を出したのか。行家も義経も召し捕るまであちこちを荒らしまわり、諸国は荒れ果て、人民も滅んでしまうではないか。その原因を作った日本第一の大天狗は、どう考えても他の者ではないか」

 頼朝の罵倒の言葉は、ほぼそのまま返書として京に届けられたという。

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映画『大河への道』が描かなかった真の主人公の悲劇

 映画『大河への道』が封切られた。原作は立川志の輔さんの創作落語。郷土の偉人、伊能忠敬(1745~1818)を主人公にした大河ドラマの実現に奮闘する千葉県香取市役所の職員と、忠敬の日本地図を巡る秘話を、現代と江戸時代とを行き来しながら描く。映画をもとに地図完成までのいきさつを振り返り、映画では描かれなかったその後の悲劇を記してみた。

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 忠敬が主人公かと思って映画館に足を運んだ人は、忠敬の顔に白い布がかけられる冒頭シーンを見て驚いたのではないか。物語は忠敬の死後に「大日本沿海輿地よち全図」を完成させた幕府天文方の高橋景保 (1785~1829)と忠敬の弟子たちが、忠敬の死を必死に隠して地図を完成させるまでの苦闘の物語だ。忠敬の孫、伊能忠誨ただのり (1806~27)の日記によると、忠敬の喪が発せられたのは、日本全図が幕府に上呈(納品)された約2か月後の文政4年(1821年)9月だから、景保らが忠敬の死を伏せて地図を完成させたのは史実通りといえる。

測量で割り出した距離、今の数値とほぼ同じ

伊能忠敬(『肖像』国立国会図書館蔵)

 下総国佐原(今の千葉県香取市)の名主だった忠敬は49歳で隠居し、幕府天文方だった景保の父、高橋至時よしとき (1764~1804)に弟子入りして本格的に天体観測や測量を学び始める。日本地図づくりは、いわば「隠居の道楽」から始まったわけだが、忠敬は私財を投げうち真剣に取り組んだ。天体観測や暦の作成を行う天文方の第一人者だった至時が、自分より年上の忠敬を弟子にしたのは、忠敬の知識と熱意が人並み外れていたからだろう。

浅草天文台での天文観測(葛飾北斎『鳥越の不二』国立国会図書館蔵)

 忠敬は地球は丸いことを知っていた。だが、緯度1度の距離については当時定説がなく、地球の大きさがどれくらいなのかが分からなかった。向学心に燃える忠敬は寛政12年(1800年)、緯度1度の距離を割り出すため、江戸(千住)から津軽三厩みんまや)まで奥州街道を21日かけて踏破し、蝦夷地では西別(現在の別海町)まで、往復3200キロを歩き通して距離を実測した。忠敬が測量によって割り出した緯度1度の距離(約111キロ)と地球の外周(約4万キロ)は今の測量数値とほとんど同じだった。

 実測の名目は「地図を作るため」とされ、地図は幕府に提出された。地図を見た幕府老中の松平信明のぶあきら (1763~1817)はその出来ばえに感心し、至時と忠敬に日本全土の測量を命じた。当時は日本の近海に外国船が出没し、幕府は国防のために正確な日本地図を必要としていた。

忠敬を支え、弟子たちを支えた景保

 実測の旅は10次にわたり、忠敬は第9次の伊豆七島を除いて自ら実測し、ほぼ地球1周分を歩いたとされる。忠敬が第5次測量に出る前に至時は40歳で没し、地図作りの監督役は弱冠20歳で天文方を継いだ息子の景保に引き継がれた。

 ここで映画の冒頭、忠敬の死亡シーンにつながる。景保にしてみれば、父から引き継いだプロジェクトはやり遂げなければならないが、自分には忠敬の代わりは務まらない。幸い地図作りのための実測はほぼ終わり、地図を描ける忠敬の弟子もいる。こうなれば、忠敬の死を秘して何とか地図を完成させるしかない――。景保は弟子らを叱咤激励し、日本全図は忠敬の死の3年後に何とか完成にこぎつけた。

忠敬の日本地図(中央は「小図」、周囲が「大日本沿海輿地全図国立国会図書館蔵)
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ロシアのウクライナ侵略の「終わらせ方」と大坂の陣

 ロシアのウクライナ侵攻は、出口の見えない戦いになりつつある。ロシアの軍事・安全保障問題に詳しい東京大学先端科学技術研究センター専任講師の小泉悠さんはテレビ番組で、ウクライナが非武装化に応じれば、「大坂夏の陣になる」と解説した。防衛省防衛研究所主任研究官の千々和泰明さんも、『戦争はいかに終結したか』のなかで、「相手が和睦の条件を正しく履行しないかもしれないと考えれば和睦は成立しない」と指摘し、その例として大坂の陣をあげている。

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  • ウクライナと大坂を比較する是非
  • 戦いの帰趨を決めた冬の陣の和睦
  • 内堀が埋められた真相
  • 甘い言葉には罠がある

ウクライナと大坂を比較する是非

 「ウクライナ戦争と大坂の陣では時代も背景も違いすぎる。単純に比較できない」というご意見もあるだろう。もちろん侵略戦争に至る経緯や戦争の形には異なる点もある。しかし、ウクライナも当時の豊臣方とよく似た立場にあることも事実だ。

 徳川と豊臣には関ケ原の合戦による対立とその後の融和という経緯があった。戦力的には徳川が豊臣を圧倒していた。徳川は当初から豊臣の滅亡か完全な無力化を企図し、難癖(=方広寺鐘銘事件)をつけて唐突に全国の大名に豊臣攻めを命じている。豊臣は味方を募ったが、正規軍を派遣した大名(同盟国)は皆無だった。しかし、兵糧米の調達を手助けするなど、裏で豊臣方を経済的に支援する動きはあった。戦闘は白兵戦よりもオランダ製の大砲などが威力を発揮している――。

徳川方が大坂の陣の口実にした方広寺の鐘。「国家安康 君臣豊楽」の銘が問題になった

戦いの帰趨を決めた冬の陣の和睦

 こうして大坂冬の陣が始まった。戦争の終わらせ方を考える上で重要なのは冬の陣であり、徳川方が豊臣方を滅ぼした大坂夏の陣は冬の陣の和睦が招いた当然の帰結に過ぎない。豊臣方は冬の陣の後の和睦で戦争は終わったと考えざるを得なかった。終わるとは信じていなかったとしても、豊臣を存続させなければならない。だが、徳川方は和睦は次の戦いへのステップとしか考えていなかった。

豊臣秀頼(左)とい徳川家康(右)の像

 千々和さんによると、戦争の終わらせ方には2種類がある。力に勝る側が味方の犠牲を覚悟して相手を完膚なきまでに叩きのめし、将来の禍根を絶つ「紛争原因の根本的解決」と、力に勝る側が味方の犠牲を避けるため、相手と妥協し和平を結ぶ「妥協的和平」だ。根本的解決は第二次世界大戦ナチス・ドイツに対して連合国が行い、妥協的和平は1991年の湾岸戦争アメリカがサダム・フセイン体制の存続を認めたのが代表例だという。

 徳川家康(1542~1616)は当初から豊臣家を攻め滅ぼす「根本的解決」を図っていたが、豊臣方は大坂冬の陣で和睦に応じたことで、徳川方が「妥協的和平」を選択してくれることに望みをつないだ。だが、それは甘かった。その象徴的な出来事が、大坂城内堀をめぐる駆け引きだった。

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「鎌倉殿の13人」上総広常はなぜ頼朝に殺されたのか

上総広常(国立国会図書館蔵)

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の4月17日放送回「足固めの儀式」で、佐藤浩市さんが演じた坂東武者、 上総広常かずさひろつね (?~1184)が、大泉洋さん演じる源頼朝(1147~99)によって粛清された。ドラマでは、頼朝の鎌倉追放を画策した御家人たちを監視するため反頼朝派に潜入しただけなのに、謀反の失敗後に中心人物の  れ ぎぬ を着せられ、頼朝の命を受けた梶原景時(1140?~1200)に殺されてしまう。

 SNS上には「頼朝が嫌いになった」といったコメントがあふれたが、広常誅殺の史実はどうなっているのか調べてみた。

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  • 前後の経緯は「吾妻鏡」から欠落
  • 朝廷への忠誠誓う頼朝の後講釈に登場
  • 東国国家論と検問体制論
  • 三谷マジックの伏線

前後の経緯は「吾妻鏡」から欠落

 鎌倉幕府の“正史”を記す『吾妻鏡』には、広常粛清事件が起きた寿永2年(1183年)の記述がない。ドラマの上で広常は頼朝追放計画の中心人物に仕立てあげられて誅殺されるが、脚本を担当する三谷幸喜さんは、頼朝追放計画そのものがドラマ上の創作であることを認めている。頼朝が追放計画を広常の粛清に利用したというのは史実ではない。

 ただ、広常の誅殺はフィクションではない。頼朝と面識があり、頼朝派の公家と親密だった天台宗の高僧、慈円(1155~1225)が記した『愚管抄』は、この事件を次のように紹介している。

 「(頼朝から)命をうけた梶原景時が介八郎(広常)を殺した(中略)。その時、景時は広常と 双六すごろく をしていたが、景時が双六の盤の上をさりげなく越えたと思う間もなく、広常の首はかき切られ、頼朝の前に差し出された」(慈円著、大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』講談社学術文庫

 『吾妻鏡』にも寿永3年(1184年)元日の条に「去年の冬の広常のことで 営中えいちゅう が けが れたため、頼朝が鶴岡八幡宮の初詣を見送った」というくだりがある。国学院大学非常勤講師の細川重男さんによると、営中(御所)の大広間は「 侍間さむらいのま 」と呼ばれ、御家人たちの  まり場だった(『頼朝の武士団』)。広常が誅殺されたのは寿永2年の暮れで、場所は営中(頼朝邸)の大広間だろう。

 頼朝の屋敷を血で穢しての「公開処刑」は、頼朝の了承なしではできないはずだ。頼朝が誅殺の日時や場所も指示していた可能性もあるから、広常誅殺は頼朝の命によるものとみていいだろう。

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国宝指定の熊本・通潤橋 官民協力で造った日本一の石橋

完全復旧した通潤橋

 熊本県山都町やまとちょうにある日本最大級の水路石橋、通潤橋つうじゅんきょうが“国宝に指定される見通しとなった。

 通潤橋は2016年の熊本地震で通水管が破損し、2年後の豪雨で石垣の一部が崩落し、20年7月に復旧した。安全上の問題からその後も半年間は一般の通行は禁止されてきた。今回は「日本一の石橋王国」熊本の歴史を調べてみた。

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全国に残る石橋の半分は肥後に

 筆者は熊本のテレビ局に勤務していた2016年4月14日、16日に熊本地震に遭遇し、東京に戻ってからも熊本の復旧・復興を見つめてきた。これまでこのコラムでも熊本城と阿蘇市阿蘇神社について取り上げている。

 熊本地震で被災した歴史的な建造物はほかにも多い。通潤橋など江戸時代後期から明治時代にかけて造られたアーチ式石橋もそのひとつ。肥後(熊本県)には「 目鑑めがね(眼鏡)橋」と呼ばれるアーチ式石橋が約340もあり、全国の石橋の約半分が集中する「日本一の石橋王国」なのだ。

 熊本地震やその後の豪雨で被災した石橋は、国や県、市町村が文化財に指定したものだけで20にのぼる。橋の数が多すぎて、文化財以外の石橋の被災・復旧状況は、熊本県全貌ぜんぼう をつかめていないが、主な橋は通潤橋の完全復旧で、ほぼ元に戻ったようだ。

安見下鶴橋は熊本地震で一部が損壊し、その後の豪雨で流失した。写真は地震直後のもの(宇城市教育委員会提供)。立門橋は地震後の豪雨で被災し修理中。永山橋、八勢眼鏡橋は修復後の写真(熊本県教委提供)。「ハート橋」として知られる二俣橋は地震の被災は免れたが、兄弟橋の二俣福良渡が被災し、修理されていた(写真左)ため、太陽光でハートが現れる地点が1年以上立ち入り禁止となった
安見下鶴橋は熊本地震で一部が損壊し、その後の豪雨で流失した。写真は地震直後のもの(宇城市教育委員会提供)。立門橋は地震後の豪雨で被災し修理中。永山橋、八勢眼鏡橋は修復後の写真(熊本県教委提供)。「ハート橋」として知られる二俣橋は地震の被災は免れたが、兄弟橋の二俣福良渡が被災し、修理されていた(写真左)ため、太陽光でハートが現れる地点が1年以上立ち入り禁止となった

官民協力で磨かれた匠の技術

 通潤橋は周囲を峡谷に囲まれた白糸しらいと台地に農業用水を送る水路橋として嘉永7年(1854年)に架けられた。建設を主導したのは地元、 矢部やべ手永てながの 惣庄屋そうじょうやだった布田ふた保之助やすのすけ(1801~73)だ。

 「手永」はいくつかの村を束ねる熊本藩独特の行政区画で、「惣庄屋」はその責任者。保之助は住民代表だった。通潤橋の建設費の大半は豪農や、地元住民の寄付で賄われている。つまり、通潤橋は「もっと豊かになろう」という地元住民の総意と、それを後押しした藩の「官民協力」によって建設されたわけだ。

 こうした農民らに招かれる形で、優秀な技術を持つ石工いしく の集団が熊本に定住し、石橋文化が花開いた。通潤橋の建設には41人もの石工が参加し、知恵を持ち寄って難題を解決している。現在の熊本県八代市には当時、「野津のず石工」と「種山たねや石工」という二つの石工集団があり、通潤橋の石工を率いたのは種山石工の宇市(1819~71)、丈八(1822~97)、甚平(生没年不明)の3兄弟だったという。

実際に造った人が名を残した

 種山石工の祖とされる藤原林七(?~1837)については「長崎で石橋の技術を学ぼうとオランダ人に接触し、丈夫な石橋の構造に円周率が関係しているという秘密を知ったが、鎖国中に外国人と接触したことが露見して長崎から逃亡し、採石場があった種山村に流れついた」という逸話がある。「円周率の秘密」や「門外不出の秘伝」といった話はほぼ後世の作り話のようだ。

 だが、それでもよく鶴岡八幡宮源頼朝金閣寺足利義満が建てたといわれるが、歴史的建造物を実際に造ったのは殿様ではない。実際に造った人の名は残らない」と言われることを考えれば、後世に石工の棟梁の名前が残っているのはすごいことだ。

 ちなみに丈八は通潤橋を造った後に橋本勘五郎と名を改め、明治新政府にスカウトされて、東京で浅草橋や万世橋を造り、やはり名工としてその名を残している。

橋本勘五郎(丈八)が架けた万世橋の錦絵(『東京府下自漫競』東京都立図書館蔵)

   石工(技術者)が惣庄屋(事業主)と藩の地方役人(監督官庁)と知恵を出し合い、手柄を分け合って功績はきちんと評価する。今でいう「産学官の連携」が進んだことが、熊本に石橋文化が花開いた最大の理由ではないか。

 

文化審議会が2023年6月23日、通潤橋の国宝措定を答申した事実を追加するため記事を修正しました。

 

 

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牛に引かれて…善光寺詣に隠された史実はあるか

  

 長野市善光寺で4月3日から 御開帳ごかいちょう が始まった。数えで7年に1度の御開帳は本来なら2021年春に行われるはずだったが、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から1年延期されていた。善光寺というお寺には謎が多い。創建時から説き起こし、その謎に迫るとともに、江戸時代に現在の御開帳を始めた大僧正・等順(1742~1804)について振り返った。

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  • 善光寺本尊は日本最古の仏像
  • なぜ善光寺無宗派なのか
  • 有名な戦国の移転奉祀にも謎が
  • 「牛に引かれて…」の由来は

善光寺本尊は日本最古の仏像

 善光寺の本尊「 一光三尊阿弥陀如来いっこうさんぞんあみだにょらい (善光寺如来)」について、『日本書紀』は欽明天皇13年(552年、壬申)に百済聖明王(?~554)が経典とともに日本にもたらしたと記している。つまり日本最古の仏像なのだが、歴史の授業では仏教伝来には538年と552年の2説あると教わった。552年説の根拠は上記の通り『日本書紀』だが、538年の根拠は何なのだろうか。

 『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は、「欽明天皇(509?~571?)の御代の『戊午年』に百済聖明王から仏教が伝来した」とする。ところが欽明天皇の御代(在位は540~571年とされる)には「戊午」の年が存在しない。欽明天皇の御代より前で最も近い「戊午」の年が538年(日本書紀によると宣化天皇3年)となるということらしい。

 つまり、538年と552年のどちらも、伝来した仏像は同じ善光寺如来なわけだ。御開帳で公開されるのは、鎌倉時代に造られたとされる本尊と同じ姿の「 前立本尊まえだちほんぞん 」、つまり本尊のレプリカなのだが、前立本尊には光背などに日本の仏像とは異なる特徴があるというから、百済から渡来したというのは本当かもしれない。

なぜ善光寺無宗派なのか

 善光寺がどの宗派にも属さないのも、本尊が日本仏教の原点といえる仏像だからだろう。無宗派であるゆえに、善光寺は分け隔てなく万人を救済してくれる寺として、庶民の広く深い信仰を集めてきた。古くから女性の参拝を受け入れ、女人救済の寺として知られるのも、その表れといえる。コラム本文でもふれているが、善光寺如来は女帝の皇極天皇(594~661)を地獄から救出したという言い伝えがある。

 絶対秘仏の「神秘性」と万人救済の「開放性」が同居していることが「遠くとも一度は まい れ善光寺」といわれるほど庶民の信仰を集めている一因だろう。

 都(当時は飛鳥)からなぜ長野市に到達したのかについては多くの説がある。本田善光が背負って運んだのは麻績の里で、やはり皇極天皇が現在の地点に創建したという言い伝えがある。コラム本文では(ある程度までだが)この点も解説している。

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「光秀は本能寺にいなかった」新説の講演を聞く

 天正10年(1582年)6月2日、明智光秀(?~1582)が主君の織田信長(1534~82)を討った本能寺の変について、金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する『 乙夜之書物いつやのかきもの』という書物から、これまでの常識を覆す記述が見つかった。この記述を見つけた富山市郷土博物館主査学芸員萩原はぎはら大輔さんが富山市で行った「読売・TDBフォーラム北陸」での講演内容を紹介している。

講演する萩原さん(3月7日、富山市で)

読売新聞オンラインのコラム本文

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  • 『乙夜之書物』はどんな書物か
  • 謀叛は延期されてきた?
  • 光秀軍は余裕をとって本能寺に向かった
  • 光秀は「敵は本能寺にあり」とは言っていない
  • 光秀が鳥羽に控えた理由
  • なぜ信長は本能寺に宿泊したのか 

『乙夜之書物』はどんな書物か

 『乙夜之書物』は、加賀藩に仕えた兵学者、関屋政春(1615~85)が見聞した524のエピソードが記されている。このうち本能寺の変に関する記述は、政春が加賀藩士から聞いた「また聞き」ということで、その内容はこれまでほとんど注目されていなかった。

 だが、政春に本能寺の変の話をした井上重成は、実際に本能寺を襲撃したおじの斎藤利宗(1567~1647)から話を聞いている。しかも利宗の父は、変の直後から「今度謀反随一也」とみられていた斎藤内蔵助利三くらのすけとしみつ(1534~82)だ。後世に残りにくい「負け組の資料」という点でも大変貴重な史料だと思う。「変の当日、光秀は本能寺にはおらず鳥羽にひかえた」という私の説が昨年大きく報じられたが、他にも注目すべき内容がある。

斎藤利三(左)と 斎藤利宗(いずれも『太平記英勇伝』東京都立中央図書館蔵)

謀叛は延期されてきた?

 利三は変の前日の6月1日昼に亀山城に入るが、『乙夜之書物』には、到着した利三を城の式台(玄関)で出迎えた光秀が、城内の 数寄屋すきや(茶室)に明智軍の首脳を集めて謀反を打ち明け、誓詞血判を取ったとある。利三は光秀に対し、「これまで謀反をずっと延期してきた。先鋒せんぽうは私が務める」と話したという。

 当時、形の上では織田家の当主は信長の嫡男の織田信忠(1557?~82)だった。信長と信忠をセットで殺さないと光秀の謀反は成功しない。信忠が急きょ6月1日の宿泊先を堺から京(妙覚寺)に変更し、京都で信長・信忠父子をともに討つことが可能になってはじめて。光秀は謀反を決断したのだろうが、「謀反を延期してきた」という利三の発言が事実なら、光秀と利三はかなり前から信長を殺す機会を虎視眈々こしたんたんと狙っていたことになる。

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