今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

13人が出そろった直後に13人ではなくなった「鎌倉殿の13人」 

 北条義時が主人公のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、大泉洋さんが演じた源頼朝(1147~99)が退場し、後半戦に入った。タイトルの「鎌倉殿」は鎌倉幕府の将軍で、「13人」は頼朝の死後、若くして後継者となった2代将軍の源頼家(1182~1204)を支えた宿老を指すことは改めてドラマの中で説明された。

読売新聞オンラインのコラム本文

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13人がようやく出そろった

 ドラマ開始時に公開したコラムでは、13人のうち3人の配役が決まっていなかった。ようやく出そろったので一覧を手直ししたうえで改めて掲示しておく。13人の生没年とドラマでの配役は表に記したので文中では表記しない。

 ドラマの中世軍事考証を担当する戦国史学者の西股総生さんは「鎌倉軍事政権の誕生 軍事政権の試練」と題した最新の論考のなかで、13人を頼朝の挙兵当初からのグループ(旗揚げ組)、一度は敗れた頼朝が房総に逃れ、勢力を回復してから帰参したグループ(後乗り組)、幕府の実務を担わせるため京から招いた下級貴族(文官組)に3分類し、旗揚げ組が5人、後乗り組が4人、文官組が4人となっていることを指摘する。

 また、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは『北条氏の時代』のなかで、出身地のバランスに注目している。頼朝は幕府の拠点・鎌倉を囲む位置に所領を持ち、箱根権現や伊豆山権現を信仰していた伊豆(静岡県)、駿河(同)、相模(神奈川県)、武蔵(埼玉県など)の4か国の出身者を重用しており、それが人選にも反映されたというのだ。

 13人のうち京都出身の文官組4人を除いた9人の出身地は相模が3人、武蔵が2人、伊豆が2人、下野(栃木県)が1人(安達盛長の出身地は不明)。確かに実力では13人より上位の房総の千葉氏や北関東の小山氏など、複数の有力な御家人が含まれていない。

13人の人選をしたのは北条時政

 鎌倉幕府の公式記録『 吾妻鏡あずまかがみ』によると、13人の顔ぶれが決まったのは建久10年(1199年)4月だったが、頼家はこの合議制導入に反発して近習以外の目通りを禁じており、13人を選んだのは頼家ではない。人選を進めたは北条時政という見方が有力だ。

北条時政(『武者鑑』国立国会図書館蔵)

 歴史学者の呉座勇一さんは、近著『頼朝と義時』のなかで、北条派と比企派の実力が拮抗きっこう していることに注目する。13人のうち12人は一族を代表する宿老や百戦錬磨の能吏たちだが、義時だけがまだ30歳代にもかかわらず13人に加わり、北条氏から2人が入っているのだ。

比企能員(左)と梶原景時(右)(『大日本歴史錦絵』『集古十種』国立国会図書館蔵)

 13人の重臣の中で実力が飛び抜けていたのは梶原景時と比企 能員よしかず だったとみられている。2人は頼朝の命で幼少時から頼家を後見し、頼家は能員の娘、 若狭局わかさのつぼね (?~1203)を側室(正室説も)としたため、将軍家外戚の地位は北条氏から比企氏に移っていた。ドラマでは中立派のように描かれていたが、比企氏の娘を妻とする安達盛長も比企派とみられる。

安達盛長(『集古十種』国立国会図書館蔵)

 足立遠元の娘は時政の2番目の妻(時政の息子に嫁いだとの説も)だったから北条氏の親戚だが、当時、遠元も同じ武蔵出身の能員に接近していた可能性がある。

 もし遠元が比企派につけば、時政は縁戚関係の三浦義澄を引き込んでも1人では対抗できない。ドラマでは義時を押し込んだのは北条政子(1157~1225)としていたが、義時を北条氏でなく江間氏をカウントして13人に押し込んだのは時政だった考えた方が自然だ。

源頼家(『講談日本外史 第2巻』国立国会図書館蔵)

13人が一堂に会した記録はない

 また、『吾妻鑑』はことさらに頼家の暗君ぶりを強調し、経験不足の頼家の暴走を防ぐために御家人が合議制を導入したかのように描いているが、頼家が寺社の所領争いに介入し、双方の言い分を詳しく聞かずに土地の絵図に墨で一直線に線を書き入れて「土地が広い狭いは運次第だ」と言い放ったという有名な逸話は、合議制の発足以降に起きている。

 さらに、ドラマでは13人が一堂に会して土地争いを審議するシーンがあったが、13人がそろって合議した事例は確認されていない。頼家はもちろん、御家人も人選に納得していたとは考えにくく、バランスを取ったはずの頼家の政権基盤は発足時から火種を抱えていた。対立は発足直後から表面化することになる。

1年ももたずに崩壊した合議制

 まず、合議制の発足直後に文官の二階堂 行政ゆきまさ が政界を引退した。西股さんは前述の論考で「篤実な能吏だった行政は、政争に巻き込まれるのを嫌って身を引いた可能性が高い」とみる。

 さらに半年後、頼朝の 烏帽子えぼし 親だった結城朝光ともみつ (1168~1254)が頼朝を追慕して「忠臣は二君に仕えずというが、頼朝様のご遺言に従って出家しなかった。今となっては後悔している」と御家人に語ったひとことが大きな騒動に発展する。「梶原景時がこの発言を問題視し、頼家に『朝光謀反の疑いあり』と 讒言ざんげん した」という うわさ が駆け巡ったのだ。

 仰天した朝光は、盟友の三浦義村(1168~1239)に相談し、義村は他の御家人と連名で景時弾劾状を提出する。景時は鎌倉を追放され、京に向かう途中で斬殺される。ドラマでは頼家にも御家人にも疎まれて鎌倉を去るという筋書きだったが、時政と義時が三浦氏と組んで、比企派の勢力を削ぐため景時排斥の陰謀を巡らせた可能性がある。

 とりあえず、ドラマの進行に合わせて今回は「梶原景時の変」までで止めておくが、ドロドロした抗争はまだ、これからだ。前掲の表をよく見ると、景時の後に誰が討たれるかが分かるのでご覧いただきたい。コラム本文もその後の展開に触れているので、ネタバレ注意と申し上げておく。

 

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