今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞編集委員  丸山淳一

蘭奢待に並ぶ正倉院の名香 全浅香とは

 奈良市奈良国立博物館で、74回目となる正倉院展が開かれた。東大寺に献納された約9000件といわれる収蔵品から、今年は59件が出陳された。目玉のひとつが天下の名香木といわれる「 全浅香ぜんせんこう 」。正倉院蔵の香木と言えば「 蘭奢待らんじゃたい 」の雅名を持つ「 黄熟香おうじゅくこう 」が有名だが、全浅香も「 紅塵香こうじんこう 」「 沈香こうちんこう 」の雅名(優雅な別名)を持ち、蘭奢待に並ぶ「両種の御香」といわれている。

 しかし、会場では残念ながらその香りを聞くことはできない。長さ105.5センチ、重さ16.65キログラムの武骨な丸太をみても、そのすごさがピンとこない人も多いだろう。全浅香はただの丸太ではないというの今回のコラムの主題だ。

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  • 聖武天皇の「四十九日」に献納された「国家の珍宝」
  • 珍宝帳作成時には見落とされていた?
  • 蘭奢待献納は全浅香の400年後?
  • 足利将軍3人は「前例に倣う」
  • 信長は本当に切らなかったのか

聖武天皇の「四十九日」に献納された「国家の珍宝」

 正倉院との由緒は、蘭奢待より全浅香の方が深い。聖武天皇(701~756)ゆかりの宝物が初めて東大寺に献納されたのは天平勝宝8歳(756年)6月21日、聖武太上天皇七七忌(四十九日)だが、全浅香はこの時に光明皇太后(701~760)が献納した宝物のリスト『国家珍宝帳』に「全浅香一村重大さんじゅう四斤(全浅香1材、重さ34斤)」としっかり記載されている。

 この文字は項目の間の隙間に小さな文字で後から書き込まれているが、筆致などから後世に書き加えたものではない。下部には重さを示す「卅三斤五両」と計り直した紙が貼り付けられている。

全浅香の長さや重さの記録は時代や書物によって異なるが、それが切られたためかどうかは不明だ(左『正倉院宝物帳』国立公文書館蔵、右『諸國里人談5巻』国立国会図書館蔵)
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鉄道150年 大隈重信「一生の不覚」のその後

 新橋―横浜間に日本で初めて鉄道が走ってから150年になる。文明開化の象徴にもなった鉄道建設に貢献したのは大隈重信(1838~1922)、伊藤博文(1841~1909)、井上まさる(1843~1910)の3人だ。

若き日の大隈(国立国会図書館蔵)

 日本の鉄道史には、ペリー提督(1794~1858)の黒船が来航した嘉永6年(1853年)にまでさかのぼる前史があるが、大隈は前史から佐賀で鉄道に関与している。コラムでは前史からその歴史を振り返った。

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  • 「一生の不覚」狭軌の採用
  • 英国の鉄道権益拡大で結託か
  • その後も続いた改軌論争
  • 「おサル訪問」の非礼から始まった?井上と後藤の縁
  • 日本初の地下鉄はなぜ広軌なのか

新橋駅の鉄道開業式典を描いた錦絵(井上探景『大日本鐡道發車之圖』国立国会図書館蔵)

「一生の不覚」狭軌の採用

 レールや機関車、建設や運行は英国に頼ったとはいえ、大隈が鉄道は自国で建設するという原則を死守し、早期にそれを実現したことは、その後の日本の鉄道発展の礎になった。ただ、建設を急いだことは、ひとつの禍根を残した。軌間(ゲージ)を1067ミリの狭軌としたことだ。

 軌間が狭いと列車は踏ん張りがきかず、速度も出せずに輸送力が劣る。世界の標準はすでに1435ミリの広軌標準軌)だったが、大隈らは英国側が用意した狭軌をそのまま採用した。その理由には諸説あるがはっきりしない。

 大隈が「日本は狭い国だから、レールも狭くてよかろう」とよく考えずに容認し、井上はよく考えた末に「山が多い日本に鉄道を通すには多くのトンネルや橋が必要で、広軌にすると工事費がかさむ」と判断したともいわれている。

英国公使パークス(左)とレイ。2人は中国(清)で英国の権益拡大に奔走した

英国の鉄道権益拡大で結託か

 狭軌を日本に持ち込んだのは英国公使ハリー・パークス(1825~88)が紹介した元清国(中国)領事のホレイショ・ネルソン・レイ(1832~98)だった。レイは世界各国で広軌への改軌が進んで不要になった狭軌を高く日本に持ち込み、利ザヤを稼ごうとしたという見方がある。

 パークスは英国の権益拡大のため、明治維新に深く介入しており、江戸城無血開城もパークスが江戸総攻撃に同意しなかったからだという説もある。コラム本文にも書いた通り、日本での鉄道建設を狙っていた米国を排除するため、パークスとレイは結託していた可能性が高い。

 ここまでの経緯はコラム本文で詳しく書いたのでお読みいただきたい。ここからは書ききれなかった「改軌論争・その後」に触れておく。

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安倍元首相国葬で菅氏の弔辞に引用された『山県有朋』

 安倍元首相の国葬国葬儀)で多くの人の心を打ったのは、菅義偉前首相の弔辞だった。弔辞を読み終えた菅氏に対しては、自然に拍手がわいた。葬儀会場で弔辞に拍手がわくのは異例のことだという。

安倍元首相の国葬儀(首相官邸ホームページより)

衆議院第1会館1212号室の、あなたの机には、読みかけの本が1冊ありました。岡義武よしたけ著『山県有朋』です。

 ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。そしてそのぺージには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。

 しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を しのんで詠んだ歌でありました。

 総理、いまこの歌ぐらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。

 かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

 かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

 深い哀しみと、寂しさを覚えます。総理、本当にありがとうございました。どうか安らかに、お休みください。

 コラムでは、明治42年(1909年)10月、訪露の途中にハルビン駅で凶弾に倒れた伊藤博文(1841~1909)と山県有朋(1838~1922)の関係について紹介した。弔辞からは、友人を突然失った菅氏の喪失感がひしひしと伝わってくる。

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  • 弔辞に第三者の介在や作為はあったのか
  • 菅氏の山県に関する評価は正しいのか
  • 安倍元首相は7年前に本を読み終えていた
  • 政治家の評価は人による…だから国葬には手続きが要る

弔辞に第三者の介在や作為はあったのか

 この弔辞についてはゴーストライターがいたのではないか、軍国主義者である山県を弔辞で取り上げることが適切なのかどうか、といった声もある。菅氏が引用した政治学者、岡義武(1902~90)の『山県有朋』は、最後の部分で山県を「彼(山県)の権力意志は支配機構を掌握することへと集中されたのであった。彼は終始民衆から遊離したところの存在であった」と批判している。

 菅氏の弔辞は安倍元首相を伊藤に見立てており、山県を批判することは安倍元首相を貶めることにはならない。山県を引き合いに出したことで評価を貶められる恐れがあるのは山県を自分を重ね合わせた菅氏の方だ。

 菅氏が山県を自分に重ねたのは、伊藤暗殺後の山県の対応と、生前の伊藤の関係、さらには安倍氏の机の上にあった本の折れたページを見つけて運命的なものを感じたからだろう。議員会館の机の上の本を見つけたエピソードが創作でなかったとすれば、という前提が付くものの、筆者は第三者の過剰な作為は感じない。

伊藤博文(左)と山県有朋国立国会図書館蔵)
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「奇想の画家」伊藤若冲の超人的な集中力と熱意

 東京・上野の東京芸術大学大学美術館で開催された特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」にあわせて、後期展示の目玉だった 伊藤いとう若冲じゃくちゅう (1716~1800)の『 動植どうしょく綵絵さいえ 』を取り上げた。

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  • トサカの「ざらり」まで再現
  • 京の裕福な青物問屋の子
  • 最大の理解者と最高の師
  • 鶏から虫や魚に対象を拡げたワケ
  • 「見る眼がある人を千年待つ」「今見ても素晴らしい」

伊藤若冲動植綵絵』の「向日葵雄鶏図」(部分、展覧会入場券より) 

 『動植綵絵』は若冲が40歳ごろから約10年をかけて完成させた30幅にわたる超大作で、2021年に国宝に指定された。今回はそのうち10幅が公開された。美術史研究家の辻 惟雄のぶお さんは著書『伊藤若冲』の中で、若冲の絵は「細部まで意識がいきわたっていて、いったいどこに目をやったらいいのか。そうした思いにめまいを覚えそうになることすらある」と記している。

トサカの「ざらり」まで再現

 細部までのこだわりを「 向日葵ひまわり雄鶏図ゆうけいず 」で見てみよう。

「向日葵雄鶏図」超高精細画像はこちら↓をクリック

 鶏のトサカは、微妙な色使いの違いによって、ざらりとした質感まで表現されている。羽の一枚一枚の色使いは見たままではなく、雄鶏の 猛々たけだけ しさと優美さを強調する狙いが込められている。若冲は『動植綵絵』30幅のうち8幅で鶏を描いており、鶏の生命力を好んだ。

 その一方で背景のヒマワリには、茶色く変色した葉が目立つ。普通は見栄えが悪い朽ちた葉をここまで細密に描くことはない。リアリズムに徹する一方で、若冲はこれまでのしがらみにとらわれず、思い通りに自由に描こうとしている。

久保田米僊「伊藤若冲像」 模本、部分(出典:ColBase<https://colbase.nich.go.jp/

京の裕福な青物問屋の子

 若冲は京都錦小路の青物問屋「枡屋ますや 」の長男で、父の死により23歳で家督を継いだ。家業は順調で家は裕福だったが、若冲は商売の面白さがわからず、学問も嫌いで酒や女遊びも好まなかったという。

 家業を継いで間もなく、狩野派の門人となって絵を習い始める。当時は町で画業を営む「 まち狩野かのう 」と呼ばれた絵師がいて、町人に絵を教えていた。教えるといっても絵手本を与えて模写させ、筆の運びや技法を身に付けさせるだけだったから、上達するカギは師の良し悪しより、いかに数多くを模写するかにかかっていた。

 若冲は師の手本を写し終えると、京の寺社を回って保有する絵を模写させてほしいと頼んで回った。ひと昔前の色あせた中国画の模写に飽きていた若冲は、最新の中国画を見たかったはずだ。当時、色鮮やかな中国の絵画を日本に持ち込んでいたのは、江戸時代に日本で布教を始めた黄檗宗だった。

 若冲生涯の師となる ばいおう (1675~1763)と、最大の理解者となる 大典だいてん顕常けんじょう(1719~1801)という二人の僧との出会いは、若冲が模写の手本を見せてもらうために黄檗おうばくしゅう萬福寺まんぷく京都府宇治市)に接近して始まったのではないか。

若冲筆の賣茶翁像(左)。若冲筆の人物画は少ない(『賣茶翁偈語』国立公文書館蔵)。右は大典顕常(『近世名家肖像集』出典:colBase<https://colbase.nich.go.jp/>)
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畠山重忠と同じ「死ぬどんどん」の犠牲者、稲毛重成

 毎回のように誰かが権力闘争の犠牲となり、いわれなき死を遂げる。SNSでは朝の連続テレビ小説をもじって「死ぬどんどん」の異名がついた『鎌倉殿の13人』。9月18日放送回では、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』が「譜代勇士、弓馬達者、容儀神妙」とほめあげた坂東武者のかがみ 、畠山重忠(1164~1205、演:中川大志さん)が謀反の疑いをかけられ、殺された。

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  • 上総広常を上回る理不尽さ
  • 途中から陰謀の主役は義時に?
  • とばっちりで殺された稲毛重成
  • スーパーの店名に名を残した重成

上総広常を上回る理不尽さ

 ドラマで理不尽な 誅殺ちゅうさつ が目立つようになったのは、4月17日放送回「足固めの儀式」で、有力御家人上総広常かずさひろつね (?~1184、演:佐藤浩市さん)が謀反人の汚名を着せられ、源頼朝(1147~99、演:大泉洋さん)の命を受けた梶原景時(1140?~1200、演:中村獅童さん)に“公開処刑”されてからだろう。

 だが、重忠の死の理不尽さは広常を上回る。広常にも謀反の意思はなかったが、頼朝が京都の朝廷に近づくことに反対し、「関東ファースト」を求めるなど、頼朝の路線を否定するところがあった。それに対して重忠は、武勇、人格、識見などが申し分ない上に、頼朝に忠実に従っていた。

血まみれになって戦う重忠(月岡芳年芳年武者旡類』東京都立図書館蔵)

 その重忠になぜ謀反の濡れ衣を着せられたのか、コラムでは“史実”に基いて振り返っている。史実がカッコ付きなのは、ドラマ主人公の北条義時(1163~1224、演:小栗旬さん)のこの時の動きを正当化するため、『吾妻鑑』に相当な脚色がある、とみる向きが多いからだ。

薄字は畠山の乱発生時には故人。赤字は女性

途中から陰謀の主役は義時に?

 執権で義時の父、北条時政(1138~1215、演:坂東彌十郎さん)は、時政の後妻、牧の方(生没年不明、演:宮沢りえさん)の告げ口に振り回され、暴走してしまった感は否めない。だが、そのきっかけとなった一粒種の北条政範まさのり(1189~1204)の毒殺と、重忠の嫡男、畠山重保(?~1205、演:杉田雷麟さん)がそれを通報したという話はドラマ上のフィクションだ。時政が政範の死に関して畠山氏を恨む理由はなく、牧の方に讒言されても真に受けるとは考えにくい。

政範の遺品を見て憤怒を募らせる牧の方(『畠山重忠:少年武士の鑑』国立国会図書館蔵)

 となると、畠山の乱は時政夫妻の言いがかりが発端だったとしても、途中から義時による「畠山潰し」、さらには「時政排除」の陰謀に性格を変えたと考える方が自然、ということになる。

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関東大震災から99年 知るべき教訓とは 

 10万人を超える犠牲者を出した大正12年(1923年)9月1日の関東大震災から99年。この震災では特に隅田川東側の江東地区、当時の本所区(現在の墨田区南部)と深川区江東区北西部)の被害が大きく、両区での焼死者はあわせて5万人を超えた。このうち3万8000人が本所区横網の陸軍 被服廠ひふくしょう 跡で亡くなっている。

東京の火災被害図(『東京震災録』東京都立図書館蔵)

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「防災ニッポン」鈴木淳・東大教授インタビュー

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 政府の中央防災会議の専門調査会委員で、関東大震災の検証を担当した東京大学教授の鈴木淳さんは、地震からしばらくの間、江東地区が公的救護の“空白地帯”になってしまっていたと指摘する。なぜこんなことが起きたのか。今回のコラムはその点に焦点を絞った。鈴木さんのインタビューは「防災ニッポン」に公開した。

  • 翌日には民間人も甚大な被害を知っていた
  • 市は都心での対応に追われ、警視庁は庁舎が全焼
  • 「救護」より「警備」を優先させた陸軍部隊
  • 復興予算はどう調達したか

翌日には民間人も甚大な被害を知っていた

 当時の東京の行政機関は今の都にあたる東京府と15の区を持つ東京市が担っていた。皇居を守る近衛師団と、南青山(今の港区青山)に司令部がある第一師団が 衛戍えいじゅ (駐屯)し、多くの兵営や衛戍病院(陸軍病院)もあった。警視庁の施設も多かったし、日本赤十字や大きな病院もあった。しかし、地震発生で鉄道や電信電話は不通になり、隅田川の東に行く橋の多くが崩落したことで、関係機関は被害の把握に手間取った。

被服廠後の犠牲者の白骨の山(『関東大震災画報』東京都立図書館蔵)

 2日朝になると、被服廠跡には親戚や知人の安否を心配した人々が多数訪れている。惨状を見て自宅に戻り、握り飯を持参して再び訪れた人もいた。2日には本所区役所の職員が東京市役所と赤十字本社病院を訪れて救助を求めているし、被服廠跡で救護活動を行っていた相生署も警視庁に被害状況を報告している。しかし、それらの情報は、すぐには江東地区や被服廠跡への救護部隊の派遣につながらなかった。

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終戦77年の夏に振り返る81年前の「総力戦研究所」の結論

 終戦から77年の8月15日が過ぎたが、今回は81年前の夏、昭和16年(1941年)夏の話から始めたい。当代一流の経済学者を集め、主計中佐の秋丸次朗(1898~1992)が率いた陸軍省戦争経済研究班(通称「秋丸機関」)が、この夏に陸軍上層部に「日米の国力差は20対1」と報告していた話はすでにとり上げた。

 もうひとつ、政府直轄の調査研究機関「総力戦研究所」の「模擬内閣」も昭和16年の夏、「日本必敗」の予測を出している。

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総力戦研究所とは

 作家で参議院議員猪瀬直樹さんの著書『昭和16年夏の敗戦』によると、この研究所は各省庁や陸海軍、民間から選抜された若手エリートを集め、戦争を主導する人材を育てるために設立された。総力戦のための調査研究機関といっても、主眼は指導者の育成にあり、イギリスの「国防大学」がモデルだという。

 昭和16年4月に入所した1期生35人(官僚27人、民間8人)は座学に加えて軍艦の見学なども行っているが、総力戦を指導するには縦割りの打破が不可欠だ。当時はともすれば政府の官と民、各省と陸軍、海軍がいがみあって、データの共有などができていなかった。

 そこで、7月からは研究生が首相や閣僚役になる模擬内閣がつくられ、総力戦を学習するための机上演習が行われた。閣僚役となった研究生は出身省庁や企業から極秘データを取り寄せ、省庁間の縦割りを排除して今の国力で米英と戦争したらどうなるか、総力戦の展開を予測した。

模擬内閣が出した「日本必敗」の結論

 優秀な頭脳を突き合わせ、模擬内閣が8月16日の「閣議」で出した結論は「日本必敗」。「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後は長期戦が必至で、その負担に日本の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない」。秋丸機関の報告書より端的に日本の敗北を予想している。原爆投下を除き、この予想はほぼ的中した。

あまりに不合理な東條英機の感想

 模擬内閣の結論は8月27、28日に首相官邸で首相の近衛文麿(1891~1945)や陸相東條英機(1884~1948)ら政府・軍部首脳に報告された。『昭和16年夏の敗戦』に記された東條の感想は、当時の指導部を覆う「空気」を表している。ちなみに東條は結論の報告を受ける前から研究所を訪れ、模擬内閣の閣議の議論を熱心にメモしていた。

    

 「戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。したがって、君たちの考えていることは、机上の空論とはいわないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということでありますッ」

 この感想の不合理さはお分かりだろう。そもそも意外な要素が机上演習で入らないのは当然で、そうした天祐が排除されなければ総力戦など指導できるはずがない。総力戦を覚悟するなら、「とらぬ狸の皮算用」、つまり計画倒れがないか、にこそ入念な検討が必要なはずだが、東條はその逆のことを言っている。

 にもかかわらず、なぜ開戦が選択されてしまったのか。コラム本文では慶応大の牧野邦昭教授が行動経済学プロスペクト理論)と社会心理学の観点から分析した結果を紹介しているので、お読みいただきたい。

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