今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

次期朝ドラロケで本堂破損 百済寺の長くて深い歴史

百済寺本堂。慶安3年(1650年)に再建された

 近江(滋賀県)琵琶後の東に位置する「湖東三山」のひとつ、釈迦山しゃかさん百済寺ひゃくさいじ滋賀県東近江市百済寺町)本堂のれ縁が破損した。

 NHK大阪放送局が制作する次期連続テレビ小説『ブギウギ』の撮影を進めていた4月25日午後3時過ぎ、濡れ縁で出演者10人がダンスの練習をするシーンのリハーサルを始めたところ、床板を支える部材が折れ、床板が20枚ほど外れて濡れ縁が5メートルにわたって最大20センチほど陥没したという。

寺はドラマや映画のロケ地だった

 NHKは「貴重な文化財を破損したことを深くおわびする。関係機関の指導に従い、修復などに適切に対応する」と謝罪している。ダンスは特に激しい動きではなく、部材が老朽化していたことも一因とみられる。

 百済寺は紅葉の名所としても有名で、秋には多くの人が訪れる。また、寺の公式ホームページによると、映画『関ヶ原』『江戸城大乱』や大河ドラマ功名が辻』などのロケ地にもなってきた。

百済寺は美しい紅葉の名所としても有名だ

 寺の維持管理には観光収入が欠かせず、集客力を持つ「売り」は多い方がいい。「聖地巡礼」の地になって大勢の観光客が訪れてくれれば寺の隆盛にもつながる。報道を見る限り、寺側も「今後も撮影を続けてほしい」と引き続き撮影に協力する考えのようだ。今回の出来事を寺の歴史を振り返るきっかけにする方が建設的といえるだろう。

聖徳太子が創建」由緒ある名刹

 濡れ縁が破損した本堂は江戸時代の慶安3年(1650年)に再建され、平成16年(2004年)に国の重要文化財に指定されているが、寺伝によると百済寺聖徳太子(574~621)が創建したとされ、本堂よりはるかに古い歴史がある。

 寺伝によれば、飛鳥時代に太子は高句麗こうくりから渡来した高僧、慧慈えじ(?〜623)とともに近江に滞在した太子は、山中から発する不思議な光を見て、幹の上半分がない枯れた杉の大木を見つけた。たくさんの山猿が杉を囲んで拝み、慧慈によれば、幹の上半分は百済の寺の観音像になっているという。聖木だと判断した太子は、根がついたままの木に十一面観世音菩薩像(植木観音)を彫り、像を囲むように堂を建てたという。

比叡山延暦寺無動寺の末寺、厳しい修行の場に

 この太子創建の伝承がどこまで史実かは不明だが、寺号から見て渡来系氏族の氏寺として創建されたとみられている。平安時代には比叡山延暦寺塔頭、無動寺の末寺となる。無動寺は比叡山で最も厳しい修行として知られる「千日回峰行」の拠点として知られ、百済寺も天台僧の修行場として、回峰修行が盛んに行われた。

 ちなみに比叡山延暦寺の「千日回峰行」については、別のコラムで紹介している。どれほど厳しい修行かも含めて、よろしければお読みいただきたい。

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フロイス絶賛「地上の楽園」を信長が焼き討ち

 室町時代に2回の戦災で焼失するが、ほどなく再建され、戦国時代に来日した宣教師のルイス・フロイス(1532~97)は「百済寺と称する大学には、相互に独立した多数の僧院、座敷、池泉ちせんと庭園を備えた坊舎1000坊が立ち並び、まさに『地上の楽園』だ」と絶賛している。その本堂が江戸時代に再建されたのは、天正元年(1573年)に織田信長(1534~82)の焼き討ちにあって全焼しているからだ。

 信長の焼き討ちといえば元亀2年(1571年)の延暦寺が有名だが、百済寺の焼き討ちはその2年後で、延暦寺末寺として焼き討ちされたわけではない。焼き討ちは、寺と六角氏との因縁に起因する。

 戦国時代、百済寺は近江守護だった六角氏の監督のもと城塞化され、境内に六角氏の出城・百済寺城が築かれた。近江の石工いしく集団・穴太あのう衆の石垣と石段で覆われ、城塞化された百済寺は堅牢で美しい寺構えとなった。フロイスが「地上の楽園」と称したのは壮観な石垣があったことも理由のようだ。

六角義賢(東京都立図書館蔵)

信長は当初]は保護していた

 六角ろっかく義賢よしかた(1521~98)・義治よしはる(1545~1612)父子は永禄11年(1568年)、足利義昭(1537~97)を擁した信長の上洛に抵抗したが敗北。居城の観音寺城を放棄する。信長は百済寺の所領を安堵し、禁制を送って保護下に収める。禁制とは、してはならないことを列記した安堵状のようなものだ。

永禄11年9月に百済寺に出された信長の禁制(『近江史蹟』国立国会図書館蔵)

一、 百済寺は以前からの寺法に従って、以前の通りに寺院の行事を行ってよろしい。臨時に百済寺に対して租税を課してはならない

一、 寺領も以前からの通りである。なお、この地を治める武士は百済寺に人足を申し付けてはならない。また、武士は山林の竹木を伐採してはならない

一、 百済寺は信長の祈願所とする。他の者が祈願所にすると申し出ても受け入れてはならない

 信長はこの寺を自らの祈願所にしようとした。百済寺の古い由緒を味方につける気だったのだろう。

悩んだ末に六角氏を支援して…

 六角父子はその後も家臣の鯰江なまず貞景(生没年不明)の鯰江城に入って抵抗を続ける。武田信玄(1521~73)の死後、信長は反信長勢力の一掃に乗り出し、六角父子が籠る鯰江城も包囲される。

 百済寺は南近江の守護だった六角氏を「御館様おやかたさま」と呼んで安泰祈願を行うなど、鎌倉時代以来、親密な関係にあった。百済寺は、信長につくか、六角父子につくか悩んだあげく、長年の縁を優先して六角氏につき、兵糧を送るなどして支援する。

 天正元年、信長の命を受けた佐久間信盛(1528?〜82)、蒲生賢秀(1534~84)、丹羽長秀(1535~85)、柴田勝家(1522?~83)に攻められて鯰江城が落城すると、後方支援を行った百済寺も焼き討ちされ、全域が焦土と化す。逃亡した六角父子が舞い戻ることのないよう寺の石垣や石段は持ち去られ、後に安土城の石垣や石段に転用されたという。

 灰燼に帰した百済寺は、本能寺の変の後に近江・佐和山城主となった堀秀政(1553~90)が仮本堂を建てたのを手始めに徐々に進む。江戸時代になると徳川家康(1542~1616)のブレーンだった天台宗の高僧、天海(1536?~1643)が比叡山の復興とともに再建を軌道に乗せ、天海の高弟や彦根藩井伊家の援助によって、慶安3年に主要伽藍が復興した。

家康天海対面図(『近世日本国民史 第15』国立国会図書館蔵)

恵林寺でも焼き討ちにあった六角氏

 長年対立した六角氏に対する信長の怒りはすさまじかった。信長は越前攻めで浅井長政(1545~73)の裏切りにあって屈辱的な敗戦をしている(金ヶ崎の退き口)が、義賢は長政と連携して信長に抵抗した。京都に撤収した信長が岐阜に帰る「千草越え」では、杉谷善住坊(?~1573)をそそのかして信長を狙撃させている。

 ちなみに信長の長男、織田信忠(1557?〜82)は天正10年(1582年)の甲斐攻めで甲斐・恵林寺を焼き討ちにするが、この理由も甲斐で信長打倒に暗躍していたとされる義治の弟、六角義定よしさだ(1547~1620)をかくまったのが理由だった。何度も落城や焼き討ちにあいながら、六角父子は巧みに逃亡し、六角氏は江戸時代にしたたかに存続している。

織田信忠恵林寺を焼き討ちに(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

 百済寺が焼き討ちされた天正元年は浅井、朝倉氏が攻め滅ぼされ、善住坊も捕まって鋸引のこぎりびきの刑に処せられている。一度は祈願寺にしようとした百済寺が六角氏を支援したことが腹に据えかねたのかもしれない。

 老朽化した濡れ縁の床下が抜けるのは不可抗力の面もあり、元通りになればそれでいい。しかし、同じ失敗を繰り返さないためにも、ドラマ撮影が行われた場所には、恩讐を超えた歴史があることは改めて肝に銘じるべきだろう。

 

 

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