今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

天下の大名物「千鳥の香炉」の数奇な来歴

大人買いしている「戦国の茶器」

 トイズキャビンのカプセルトイ「戦国の茶器」の大人買いを続けていたら、本棚の一角が変の直前の本能寺みたいなことになってきた。蘭奢待らんじゃたい三足みつあしノ蛙、平蜘蛛の釜、黄金の茶窯などがそろった。それぞれ深い由来がある。コンプリート記念に、その中から天下の大名物「千鳥の香炉」(青磁香炉せいじこうろ めい 千鳥ちどり)を紹介したい。

「千鳥の香炉」とは

 千鳥の香炉は13世紀に3世紀に南宋時代の中国龍泉窯で造られたきぬた青磁。蓋の部分は室町時代金工師、後藤祐乗ゆうじょう(1440~1512)の作とされ、ふたに千鳥のつまみが付けられている。

 三つの足ではなく香炉底面中央の高台で支えており、縁の3本の足はわずかに浮き上がっている。三つの足が浮き上がる形を、千鳥が片足を上げて休むしぐさに例えて「千鳥形」と呼ぶ。台座部分には、明時代の堆朱ついしゅ輪花形の台が添えられている。

千鳥の香炉(トイズキャビン)

武野紹鴎から今川氏真

 『古今名物類聚』などによると、当初は千利休の師である武野紹鴎たけのじょうおう(1502~55)が所持した。紹鴎の死後、今川氏真(1538~1615)が所有していた。連歌師里村紹巴さとむらじょうは(1525~1602)の『紹巴富士見道記』は次のように記している。

 御館様にて、宗祇香炉に、宗長松木盆、翌日御会席半ばに(氏真)御手づから出ださせ給ひ、千鳥といふ香炉、名物拝見忘れがたくして…

 紹巴は永禄10年(1567年)夏に駿河尾張に滞在しており、この際に千鳥の香炉を披露されたとみられる。

 永禄11年(1568年)12月、氏真は密約を交わした武田信玄(1521~73)と徳川家康(1542~1616)に攻められて翌年に降伏。北条氏を頼り、北条氏康(1515~71)の死後は家康を頼っている。

氏真が信長に献上

 天正元年(1573年)には織田信長(1534~82)が伊勢大湊の商人・角屋七郎次郎(?~1614)に対し、「氏真から預かった茶道具を買い上げるので進上せよ」と命じている(『大湊文書』)が、角屋は「すでに氏真に返し、手元にない」と答えている。氏真は降伏後も千鳥の香炉を所有していたようだ。

 『信長公記』によると、千鳥の香炉は天正3年(1575年)より前に、氏真から信長に献上されている。

 天正三年乙亥 三月十六日、今川氏真御出仕、百瑞帆御進上、已前も千鳥の香炉、宗祗香炉御進献の処、宗祗香炉御返しなされ、千鳥の香炉止め置せられ候き。

【大意】

 天正3年3月16日、氏真が「百瑞帆」を献上し、それより前にも「千鳥の香炉」と「宗祗香炉」を献上したが、信長は宗祗の香炉を返し、千鳥の香炉を受け取った。

信長の前で蹴鞠を披露する氏真(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

 ちなみに氏真はこの4日後、相国寺の信長の前で蹴鞠を披露している。この時に氏真が千鳥の香炉もあわせて献上し、信長が受け取ったと記す文書もある。

蘭奢待切り取りと連動

 だが、信長はこの前年の天正2年(1574年)3月に相国寺で開いた茶会で堺衆の今井宗久(1520~93)、津田宗及(?~1591)、千利休(1522~91)の3人に千鳥の香炉を披露した。その数日後には蘭奢待を切り取って正親町天皇おおぎまちてんのう(1517~93)に献上し、宗及と利休に分け与えている。

蘭奢待(トイズキャビン)

 御茶過候て、宗久、宗易(利休)、宗及両三人ニ書院にて、千鳥の香炉・ひしの盆・香合、拝見させられ候

 これが正しければ、天正2年までに千鳥の香炉を手に入れていないとおかしい。『信長公記』の記載が正しく、天正3年に氏真が献上したと記す文書は千鳥の香炉と「宗祗香炉」を取り違えていると推測できる。

 信長の蘭奢待切り取りについては、↡こちらにまとめている。

蘭奢待を切らせる信長(『日本歴史図会 第3輯』国立国会図書館蔵)

信長から秀吉、千利休

 信長は本能寺の変の前日に催したとされる茶会で、千鳥の香炉を披露リストに入れていた。リストに入れたが本能寺には持ち込まなかったのか、本能寺に持ち込んだが焼失を免れたのかは不明だが、信長の死後、千鳥の香炉は豊臣秀吉(1537~98)に受け継がれた。千鳥の香炉は天正14年(1586年)12月、秀吉も出席した利休の茶会で使われ、翌年10月の北野大茶会でも披露されている。

 細川幽斎(1534~1610)と蒲生氏郷(1556~95)を招いて利休が開いた茶会で、氏郷が千鳥の香炉を是非見たいと所望したという逸話がある。

 ある時、蒲生飛騨殿・長岡幽斎兩人、利休所にて茶湯過ぎて後、蒲生殿、千とりの香炉所望あり、利休無興のていにて香炉をとり出し、灰を打あけ、ころはし出す、幽翁、清見潟の歌の心にやと御申候へは、休、氣色なをり、いかにもさやうに候うとの返事なり、

順徳院御百首の中に、

 「清見潟 雲も迷わぬ 浪の上に 月のくまなる 群千鳥かな」

このこころは、きょうの茶湯おもしろく仕舞たるに、なんそや無用の所望かなと思はるるより、村千鳥を香炉に比したるへし、何事も、興の過ぎたるはあしし(後略)

【大意】

 ある時、氏郷と幽斎が利休の茶会に参加した後、氏郷が利休に「千鳥の香炉を見たい」と所望した。利休は香炉を持ってきて、無造作に灰を捨て、ごろごろ転がして見せた。幽斎が、「利休の心は清見潟の歌のようだ」と読み解くと、利休は大いに機嫌を直し、「その通り」と応じたという。

「月夜に雲もなく冴え冴えと晴れ渡った名勝清見潟に、月の影のごとく千鳥の群れが飛び交っている」

利休は、この歌の情景に群千鳥は邪魔であると解釈した上で、今日の茶の湯は満足だったが、度を越した所望によりそれが台無しになった、と思っていた。

 ちなみに清見潟は、東海道清見関にあった名勝で、氏真の父の今川義元(1519~60)が京都の公家を招いて饗応した場所だ。幽斎は千鳥の香炉がもともと今川氏のもので、駿河に滞在した紹巴が記録に残したことを踏まえて清見潟の歌を引き合いに出したわけだ。

石川五右衛門の標的に

 秀吉と千鳥の香炉についてはさらに面白い言い伝えがある。息子の秀頼(1593~1615)が生まれると、秀吉は関白・豊臣秀次(1568~95)を冷遇し、後継者の座から外そうとする。秀次の家臣、木村重茲しげこれ(?~1595)は、大泥棒の石川五右衛門(1558?〜94)に秀吉を葬り、千鳥の香炉を盗み出すよう依頼する。五右衛門は伏見城の秀吉の寝所に忍びこむが、香炉の千鳥が鳴いたため捕らえられたというのだ。

伏見城で取り押さえられる五右衛門。中央に千鳥の香炉が
(『石川五右衛門伝記』国立国会図書館蔵)

 3本足の香炉には異変を警告する話があるようだ。本能寺にあった「三足ノ蛙」の香炉にも、変の前夜に鳴いて信長に異変を知らせたという言い伝えがあり、映画「レジェンド&バタフライ」でもこの逸話が描かれた。香炉から立ち上がる香りや煙の流れが吉凶判断などにも使われていたのだろうか。

香炉「三足の蛙」(トイズキャビン)

秀吉から家康に、そして尾張徳川家

 秀吉の死後、千鳥の香炉は家康に伝わり、家康の死後は尾張徳川家が相続した。家康から堀秀政(1553~90)に与えられ、次男で信州飯田藩初代藩主の堀親良(ちかよし、1580~1637)に継承されたという異説もあるが、飯田藩の記録では寛永6年(1629年)に2代将軍の徳川秀忠(1579~1632)から堀家が「青磁千鳥香炉」を拝領したとある。

ほかにも複数伝わる「千鳥」

 千鳥の香炉と青磁千鳥香炉が同じものなら、秀政は家康から拝領された千鳥の香炉を将軍家に献上し、親良が改めて秀忠から拝領されたことになるが、拝領、献上、再拝領というやり取りは不自然だ。同様の名称を持つ香炉が他にあったと考えるべきだろう。ちなみに飯田には「堀家に過ぎたるものの久太郎(堀秀政)、千鳥の香炉、島地楽叟(飯田藩の有能な家老)」という狂歌が伝わっていたという。

 「千鳥」と呼ばれる香炉は他にもあり、それぞれに来歴がある。真偽はわからないが、「千鳥の香炉」にこれだけの来歴があるというのは、歴史の重みを感じざるを得ない。なお、「青磁香炉 銘 千鳥」は現在、愛知県名古屋市徳川美術館に収蔵されている。

 トイズキャビンから写真で紹介したのは千鳥の香炉、蘭奢待、三足の蛙。いずれも大名物だが、千鳥、ランジャタイ、蛙亭と続くと、まるでMー1グランプリのようだ。偶然だろうが、それぞれのコンビ名の由来をちょっと知りたくなった。

 

 

 

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