今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

決算!忠臣蔵 討ち入り総額1億円、へそくりから100両

 最近は「忠臣蔵」といわれても、どんな話か知らないという人も多いようなので冒頭で説明しておく。忠臣蔵とは、赤穂藩主の浅野内匠頭たくみのかみ(1667〜1701)が吉良上野介こうずけのすけ(1641〜1703)に遺恨を抱き、江戸城の松の廊下で刃傷に及んだのが発端で、大石内蔵助くらのすけ(1659〜1703)率いる赤穂浪士が主君の恨みを晴らすために上野介の屋敷に討ち入る実話(赤穂事件)をもとにした劇の名前だ。

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『江戸繪日本史』(国立国会図書館蔵)より

 歌舞伎や映画の忠臣蔵は、終戦直後には占領政策の妨げになりかねない、としてGHQが上演を禁止したほどの人気だった。その後も義士祭が開かれる12月の劇場での上演やテレビの再放送は、つい最近まで年中行事だった。

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 ここのところ忠臣蔵映画が減ったなあと思っていたら、2019年11月に新作の映画が封切られたので、さっそく見に行ってきた。

  

  • 討ち入り場面がない忠臣蔵映画
  • 取り潰し時に資産超過だった赤穂藩
  • 江戸のアジトは使わずじまい
  • 「南部坂雪の別れ」は創作

討ち入り場面がない忠臣蔵映画

 異色の忠臣蔵映画だった。まず、これまでなら一番制作費をかけていただろう討ち入りの場面がない。それだけではない。映画の原作は時代小説ではなく、赤穂事件を経済的な側面から分析した山本博文(1957〜2020)の「新書」だった。しかも、それを吉本興業の芸人さんたちが大挙出演して映画化したということだ。

 まじめな新書を吉本興業の芸人が演じるという対極の面白さを狙ったのかもしれない。吉本らしい笑いどころもあったが、内容は極めてまじめな映画だった。映画の興行収支はどうだったのだろうか。

取り潰し時に資産超過だった赤穂藩

 ということで、原作の新書をもとに、忠臣蔵の収支決算について書いてみた。詳しくはコラム本文を読んでもらいたいが、収支決算は表のようなところだったようだ。

 この資金の原資は赤穂藩取り潰しで清算した費用の残りだ。未払いの俸禄や家臣への退職金を払ったうえで、約700両の剰余金が出ている。つまり、資産超過だったわけで、赤穂は豊かな藩だったといえる。

 内蔵助は最初から討ち入りを考えていたわけではないので、内匠頭の仏事に大金を出している。討ち入りを考え出してからも金遣いはあまり上手くない。

 

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探検家近藤重蔵の転落 元農水次官事件との接点は

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近藤重蔵(『愛国百話』挿絵、国立国会図書館蔵)

 近藤重蔵(1771〜1829)といえば蝦夷地探検で有名だ。ところが息子の富蔵(1805〜87)が起こした大量殺人に連座して、不遇な晩年を送ったことはあまり知られていない。しかもその事件は親子の相克を経て起き、重蔵にも責任の一端があると言わざるを得ない面がある。

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  •  現在に通じるエリートの転落
  • 親はいつまで子どもに責任を持つのか
  • 「抜擢」と「分」のバランス

 現在に通じるエリートの転落

 幕府の登用試験に合格し、蝦夷地探検のリーダーに抜擢されて身を粉にして働いた重蔵だが、出世の壁に突き当たり、自信家で猪突猛進な性格が災いして転落していく。息子・富蔵の子育てもうまくいかなかった。

  それぞれの事情は詳らかではないから断定は慎みたいが、重蔵の人生を見ていくと、最近の親子の殺伐とした関係を思い起こさずにはいられない。中央官庁のトップにのぼり詰めた元農水次官が自分の子どもを殺めた事件などが、その代表だろうか。 

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借金抱えて領地転々「引っ越し大名」15万石の悲しい史実

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越後村上城(左上)、播磨姫路城(右上)、出羽山形城(左下)、白河小峰城(右下)

 城が大好きな私から、まずクイズ。これらの4つの城の共通点は何でしょう?答えは「いずれも『引っ越し大名』といわれた越前松平家当主の譜代大名、松平直矩なおのり(1642〜95)が居城とした城なのだ。

 

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  •  大大名の財政は火の車
  • 流転の原因は三角関係?
  • 背景には将軍家の跡目争いも

 大大名の財政は火の車

 もちろん当時の姿とは違う城もあるだろうが、姫路城と小峰城では維持費も相当違っただろう。だが、領地の石高はともに15万石だ。15万石は大大名の部類に入る。

 だが、相次ぐ引っ越しで越前松平家の財政は火の車だったという。城の維持費以前の問題として、大名の引っ越し費用はいったいいくらかかったのだろう。「引っ越し大名」直矩について調べてみた。

 直矩を調べたのは映画「引っ越し大名」を観たのが直接のきっかけだ。日本の企業特有ともいわれる頻繁な転勤がいかに負担になるかについても少しだけ考えてみた。コラム本文では映画では描かれなかった直矩の子孫の“引っ越し(国替え)ループ”についても触れている。 hikkoshi-movie.jp

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焼失した首里城は「戦わない琉球」の象徴だった

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 このコラムはYOMIURI ONLINE「深読み」で2019年1月まで掲載し、それ以降はこのブログで不定期に更新してきました。YOMIURI ONLINEのリニューアルに伴い、2019年11月からは読売新聞オンライン「webコラム」で連載を再開しました。

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  • 行政と交易重視、軍事は二の次
  •  城門を強引に開けさせたペリー
  • 琉球処分」と取り壊しの危機

行政と交易重視、軍事は二の次

 コラム再開初回は衝撃的だった首里城焼失について書いた。城は武将や権力者の住居であり、多かれ少なかれ軍事拠点として整備されるが、首里城は行政の拠点として整備されている。

  琉球は交易国家だったから、その行政庁として軍事的機能は二の次にされ、平和の象徴として整備されたのは当然の成り行きだったのかもしれない。

 多国籍の文化が融合しているのも首里城の特徴だ。正殿は朱塗りが美しい和漢折衷の建物だが、木造2層3階建ての造りや龍の形の柱などは琉球独特の様式だ。中国からの使節冊封使)をもてなした北殿は入母屋造いりもやづくり、薩摩の役人と接見したという南殿の奥には日本風の書院があった。

 外国のいい点を積極的に取り入れ、さらに進んだ新たなものを生み出す文化や技術は、資源や軍事力に頼らない交易立国の有力な武器だ。異文化が融合した首里城は、琉球のしたたかな戦略を象徴する建物でもあった。

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悪化する日韓関係 対立の底流にある「もはや」の3文字

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 日韓の対立に一向に収束の兆しが見えない。韓国の文在寅ムンジェイン大統領は2019年8月29日に行われた閣議の冒頭、日本に対し、「一度反省を言ったので反省は終わったとか、一度合意したからといって過去の問題がすべて過ぎ去ったのだと終わらせることはできない」と述べ、一度の合意で歴史問題は解決しないとの考えを示した。

 この背景について日韓の国交正常化交渉から振り返ってみた。

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www.yomiuri.co.jp

  • 国際法を無視した元徴用工判決
  • 対立の根は国交正常化交渉
  • 慰謝料請求権を放棄していた韓国
  • 「つかみ金」3億ドルの意味
  • 玉虫色の産物だった「もはや無効」
  • 「null and void」巡る日韓の攻防
  • なぜ合意を急いだのか
  • それでもボールは韓国側にある

国際法を無視した元徴用工判決

 日韓関係悪化のきっかけは、2018年10月30日、韓国の最高裁判所にあたる大法院が元徴用工4人に出した判決だった。新日鉄住金(現在は日本製鉄)に損害賠償を求めた裁判で、大法院は新日鉄住金の上告を棄却し、4人に合わせて約4000万円の賠償を命じた。

 文政権は「三権分立がある以上、司法の判断には従わざるを得ない」として、この判決による日本企業の資産差し押さえ手続きを放置し、大法院の判断を事実上追認した。日本政府は「この問題は日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。大法院の判決は国際法に照らしてもあり得ない」と反発した。

 日本は韓国を「ホワイト国」から除外し、韓国は日本と結んでいた軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決めた。のちに破棄を撤回したが、こんな状況で機密情報の交換が円滑にできるとは思えない。

 互いに「報復措置ではない」という体裁をとってはいるが、元徴用工判決をめぐる対立が解決しない限り、日韓関係が改善に向かうことはないだろう。

対立の根は国交正常化交渉

 対立の火元となった大法院判決は、元徴用工の請求権問題が「完全最終解決」したとする日韓請求権協定は有効だ、としつつ、新たに賠償を命じるという、一読すると矛盾する判断を示している。なぜこんな判決が出たのか。

 判決はその理由を「日本の韓半島に対する不法な植民地支配、および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為」が前提としてある「強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権」は、請求権協定の適用対象に含まれないのだ、と述べている。

 日本側から見ると詭弁としか思えないが、韓国側から見れば筋が通っている。大きな食い違いが生じた根っこを調べていくと、半世紀前の日韓国交正常化交渉にさかのぼる。

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戦死者1万人…死闘を指揮した「南洋のサムライ」

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島に放置された旧日本軍戦車

  河野太郎外務大臣が日本の外相として初めてパラオ共和国を訪問した。パラオ本島を訪れた外相は、約60キロ南西に浮かぶペリリュー島を慰霊している。 

 2015年には、戦後70年の節目に天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后陛下)もこの島を慰霊のために訪問されている。この島では太平洋戦争の中でもまれにみる激戦が繰り広げられた。

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  • 本土空襲の拠点巡り日米が激突
  • 中川が徹底した3つの戦術
  • 無謀な玉砕戦ではなかった
  • 米軍の過信と誤算
  • 始まると誰も止められない殺し合い
  • 最後の電文「サクラ サクラ サクラ」
  • なお島に残る2200柱

 攻防戦は昭和19年(1944年)9月15日から74日間にわたって続き、日本軍の戦死者は1万22人、負傷者は446人にのぼり、最後に残ったのはわずか34人だった。

 一方の米軍の死者は1684人と硫黄島の戦死者より少ないが、負傷者7160人を加えた死傷者数は8844人に及ぶ。資料によっては1万人を超え、死傷率は米軍にとっても「史上最悪の戦い」だったとされる。

 ノンフィクション作家の早坂隆さんは、この戦いを5年近くにわたって克明に取材し『ペリリュー島玉砕』を出版した。

本土空襲の拠点巡り日米が激突

 昭和18年(1943)9月、米軍の日本本土への空襲を防ぐため、日本は死守すべき防衛ライン「絶対国防圏」を設けた。だが、日本海軍は翌年6月のマリアナ沖海戦で大敗して、中部太平洋の制空・制海権を失ってしまう。米軍は絶対国防圏内のサイパン、グアムを次々に攻略し、パラオを次の標的とした。

 パラオ第一次世界大戦後に日本が委任統治し、ペリリュー島には東洋一と呼ばれる飛行場があった。この飛行場を拠点にしてフィリピン・レイテ島の日本軍を叩こうという作戦だ。

 かつて日本軍によってフィリピンを追われた南西太平洋方面最高司令官のダグラス・マッカーサー(1880〜1964)にとって、フィリピンの奪還は悲願だった。

 日本側も米軍の次の標的がペリリュー島だと予測し、旧ソ連満州の国境を警備していた関東軍から2個師団を引き抜き、南洋群島に回しつつあった。パラオの守備は第十四師団があたることになり、ペリリュー島の守備は歩兵第二連隊が中心となった。この部隊を率いた守備隊長が、陸軍大佐だった中川州男くにお(1898〜1944)だった。 

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守備隊長の中川州男大佐
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ウナギ絶滅?万葉歌人と江戸の発明家が勧めたワケ

 ウナギは99%が養殖物だが、卵から成魚まで完全養殖する技術はまだ確立されていないこと、そのため、養殖といっても稚魚(シラスウナギ)を捕まえて育てるしかなく、稚魚の乱獲が続いていることも、だいぶ知られるようになってきた。日本人とウナギの長い歴史を振り返った。

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  • 丑の日ウナギ発案、平賀源内説のまゆつば
  • 万葉集』にも登場「真夏のむなぎ」
  • 蒲焼きはいつ生まれたか
  • うな丼発祥の地は茨城・牛久沼か
  • 割り箸を発明したのも鰻屋だった?

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 ウナギの生態については、まだ、あまり知られていないことも多い。 

 稚魚は主に台湾で捕られて日本の養鰻池に入れられ、天然なら10年以上かけて成魚になるところを、わずか半年で急激に太らせて国産ウナギとして出荷されている。土用の丑の日に出荷できるように、その半年ほど前に台湾でごっそり乱獲される。

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 ウナギの消費が土用の丑の日に集中しなければ根こそぎ乱獲されることもなくなる。消費が集中しなければ価格も下がる。そうなればさらに乱獲も減るだろう。

丑の日ウナギ発案、平賀源内説のまゆつば

 日本各地の貝塚からはウナギの骨が出土する。日本人とウナギの歴史は、食用の裏付けがあるだけでも縄文時代から、もう5000年も続いていることになる。天然ウナギの旬は越冬に向けて栄養を蓄える秋から初冬なのだが、真夏の土用の丑の日にウナギを食べるようになったのは、江戸時代の蘭学者、平賀源内(1728~80)が広げたためとされる。   

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