今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

武田信玄と伊達政宗 戦国の「衆道」

 戦国時代の名だたる武将たちにはたくさんの同性愛の記録が残っている。武田信玄(1521〜73)の「衆道」については特に有名だ。自筆の 手紙が残っているからだ。 

 最近はLGBTについての認識が深まりつつあるが、もともと日本は同性愛に対して寛容な国だった。戦国時代は戦闘続きで女性と過ごす時間が少なかったこと、主従関係の証とされたことなどから、男性同士の恋愛が珍しくなかった。

読売新聞オンラインのコラム本文

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日本は同性愛に寛容な国だった

 タイトルの「恥ずかしい」というのは同性愛に対して、ではない。威厳ある大大名が、パートナーの御機嫌を損ね、あわてふためいて素の姿をみせている手紙が残っているのだ。特に信玄が残した自筆の手紙は数が少なく、この手紙はさまざまな角度から研究されている。

 私は最初の赴任地が山梨県甲府支局で、大河ドラマで『武田信玄』(信玄役は中井貴一さん)が放送された年に1年間「信玄の実像に迫る」という連載をした。その縁で信玄関連の記録に多く触れる機会があり、この手紙の存在もその時に知った。

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意外に小心者だった?信玄

 天文15年(1546)、26歳だった信玄(当時は晴信)が「弥七郎」という男性と浮気したと いう噂が立つ。信玄は本命の恋人だった「春日源助」に詰め寄られ、手紙で釈明してい る。

 「弥七郎に夜伽の相手をさせてはいない。これまでにもそんなことはない。昼であれ夜であれ 弥七郎と行為に及んだことはない。とりわけ今夜については考えられない。(源助とは)特別に仲良くしたいのに疑われ、困惑している」
 この前には、「弥七郎に何度も言い寄ったが、腹痛(虫気)を理由に断られたからどうにも仕方がない。これはウソではない」と解釈されてきた第一文がある。家臣とはいえ嫉妬に狂う恋人に「別の男に何度も言い寄った」と告白し、「腹が痛い、と夜伽を断られたから仕方な い」と開き直るとは、信玄はずいぶん身勝手な男と読める。
 だが、東京大学史料編纂所教授の鴨川達夫さんは『武田信玄と勝頼』の中で、第一文は「弥七郎に(源助にじかに釈明するように)何度も伝えたが、腹痛を理由に出頭を断られたから仕方ない。これはウソではない」と読むべきだと主張している。

 こう読むと、身勝手どころか、恋人をなだめて修羅場を避けようと右往左往する小心者の信玄の姿が浮かんでくる。

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春日源助に出された信玄直筆の手紙(『武田晴信(信玄)誓詞』東京大学史料編纂所所蔵)

 

信玄は字を書くのが嫌いだった?

 信玄はどうやら字を書くのが嫌いだったようで、火急の連絡や他人に知られてはまずい時しか自筆の手紙を書かなかった。その筆跡は武骨で、確かに流麗とは言えないが、この手紙には心情が吐露されていて、冷徹な信玄の人間味を知ることができる。

 なお、信玄の恋愛の相手は『甲陽軍鑑』の筆者とされる高坂弾正昌信(1527〜78)だったという説は、今では否定されている。詳しくコラム本文をお読みいただきたい。

他の武将の手紙、筆跡は?

 ちなみに織田信長も自筆の書が少なく、明確に確認できるのは肥後細川家に伝わる「信長が自筆で書いた」という添え書きがある一通のみとされている。上杉謙信は非常に手紙が多く、留守中の城の守りについて家臣に事細かに指示した手紙が多く残っているから、性格も細かい人だったといわれている。

 豊臣秀吉は家族にあてた手紙が多く残っています。筆の運びが流麗とはいえず、かなが非常に多いのは、子どものころ武家の子息のような教育を受けていなかったからではないかと見られている。戦国時代の武将にとって「衆道」は一般的だったが、秀吉は寵童を持たなかった唯一の武将といわれる。

 コラム本文では伊達政宗(1567〜1636)についても、衆道の手紙を紹介しているので、お読みいただきたい。なお、「衆道」は政略や立身出世の一環だった面もあり、主君に忠誠を尽くす「道」の証ともなっていたから、今のLGBTと同列には見れない側面もある。今につながるかどうか。ドラマの「おっさんずラブ」とも時代が違うことはいうまでもない。

 #武田信玄 #衆道

 

 コラムは修正・加筆したうえで拙書「今につながる日本史」にも収載している。

 

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