今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

「麒麟がくる」に登場 織田信秀の実像とは

 「麒麟がくる」は大河ドラマ国盗り物語」と同じく、織田信長(1534〜82)の義父となる斎藤道三(1494〜1556)がしっかり登場し、本木雅弘さんの“怪演”が話題となっている。高橋克典さん演じる実父の織田信秀(1511〜52)についても丁寧に描かれている。

 信長は尾張統一からほぼ天下を手中に収めるまでを一代で成し遂げているが、この背景には義父となる道三と実父の信秀が築いた土台と支援があった。

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織田信秀木像(萬松寺蔵、『郷土勤皇事績展覧会図録』国立国会図書館蔵)


代理の代理の傍流の家臣

 そもそも信秀、そして信長の家である弾正忠家は尾張守護代ではなかった。尾張の守護は室町幕府三管領家の名門・斯波氏で、織田家は確かに尾張守護代(守護の代理)だったが、それは信秀の家とは別の織田家だ。

 しかもその守護代織田家も2つに分かれていた。尾張の上4郡(丹羽、羽栗、中島、春日井)を領する岩倉織田家の伊勢守信安(?〜1591)と、下4郡(海東、海西、愛知、知多)を領する清州織田家の大和守達勝(生没年不明)が両方守護代として覇を競っていたのだ。

 もともとは守護代織田家はひとつで、守護の斯波氏を補佐するため斯波氏とともに京都にいた。領国には一族から守護代の代理となる「又守護代」を派遣し、又守護代は「伊勢入道」の異名を持つ織田常松じょうしょう(生没年不明)が始まりとされる。

 元々の守護代は伊勢守家の岩倉織田家だったとみられ、清州の大和守織田家は傍流という説が有力だ。信秀の弾正忠家は傍流の方の大和守家に仕える三奉行の家のひとつだった。つまり、「守護の代理の代理の傍流に仕える三奉行のひとり」に過ぎなかったわけだ。

津島湊の経済力でのし上がる

 信秀は父の信定(?〜1538)の生前に弱冠17歳で弾正忠家を継いでいるので、若い頃から信定に一目置かれていたのだろう。那古屋城や古渡城、末森城を築いて拠点を変えながら、下4郡を中心に勢力を伸ばし、主筋の大和守家をしのぐ勢力となっていく。

 力の源泉は、信定の頃から弾正忠家が支配下に置いた尾張交易圏の中心地、津島(津島衆)だった。経済力で主家をしのぐ力を得たわけだ。

 「麒麟がくる」に、信秀が蹴鞠けまりをするシーンがあったが、信秀は天文2年(1533)に公家の大納言飛鳥井雅綱あすかいまさつな(1489〜1571)を尾張に招き、蹴鞠を伝授してもらっている。清州城で蹴鞠会を開いたという記録が、蹴鞠の伝授に同行した山科言継の日記、『言継卿記』にある。

 当時の朝廷は財政難で、言継はこうした地方での“営業”で金を集めていた。当然、公家を呼べば接待や寄付を求められる。しかも天文2年といえば信秀はまだ20歳代前半だ。

 こんなことができたのは、相当な経済力があったからだろう。信秀はのちに内裏に4000貫文、伊勢神宮に700貫文を寄進し、京都建仁寺の摩利支天堂を再建している。

 こうして京都に顔を売った信秀は、守護の斯波家よりも高い官位を得て足利13代将軍義輝にも拝謁している。信長は信秀が築いた土台を引き継ぐことで、天下人になるきっかけを得たともいえる。結局、信長は言継と本能寺の変まで深く付き合うことになる。

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斎藤道三(左)と今川義元(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

美濃、駿河と何度も戦う

 信秀は経済力を背景に領国拡大を図り、道三の美濃(岐阜県)や松平家の西三河(愛知県)を攻める。一時は西三河を勢力下に収めた信秀だが、その結果駿河静岡県)の今川氏と直接向き合うことになる。美濃と駿河、双方に敵を抱えていたわけだ。

信秀は織田一族の平定よりも領地の拡張を優先し、以下のように美濃と三河を何度も攻めている。赤字は美濃、青字は三河方面での出来事、それぞれ太字は他国への侵攻だ。

  • 天文4年(1535) 岡崎城主・松平清康が陣中で家臣に暗殺される(「森山崩れ」)
  • 信秀、森山崩れの混乱に乗じて三河に侵攻 
  • 天文11年(1542)第1次小豆坂の戦い 
  • 天文11年(1542)美濃守護の土岐頼芸斎藤道三に追放され信秀を頼る
  • 天文16年(1547)(天文13年説も)加納口の戦い 
  • 天文16年 美濃守護の土岐頼純急死。道三が毒殺か
  • 天文16年 竹千代の身柄が護送の任にあたった戸田康光の裏切りで織田方に
  • 天文17年(1548)第2次小豆坂の戦い
  • 天文18年(1549)帰蝶が信長に嫁ぎ、信秀と道三が同盟
  • 天文18年 今川軍が安祥城を攻略し人質交換へ

 道三との係争は美濃守護の土岐氏をめぐる内紛と絡み、帰蝶濃姫)の輿入れとも深く関係することは、以前のコラムでも取り上げた。

 道三は土岐頼芸よりのり(1502〜82)を神輿に担いで守護代にのし上がったが、頼芸を追放し、追放された頼芸は信秀に支援を求め、大義名分を得た信秀は美濃を攻める。形勢が不利になった道三はいったん和睦を選択し、頼芸と対立していた頼武(生没年不明)の子、頼純(1524〜47)を守護に据え、娘の帰蝶(1535〜?)を嫁がせる。

 大河ドラマでは守護になった頼純が道三の追放を画策して信秀と連携して信秀が再び美濃を攻めたのが天文16年(1547)の加納口の戦いだが、加納口の戦いには天文13年説もある。信秀軍を敗走させた道三が、戦勝祝いに訪れた頼純を毒殺するというドラマの筋書きは、天文16年説を採用しないと成立しない。

ドラマが加納口の戦いを天文16年にしたのは?

 私はドラマが天文16年説を採用したのは、帰蝶役が沢尻エリカ被告から川口春奈さんに急きょ変更されたことが影響しているのでは、と邪推している。

 配役の変更でドラマが2話短くなり、天文16年以前の込み入った経緯が描けなくなった。しかも川口さんは若く、天文16年なら子役をたてなくても何とかなる。頼純が登場からわずか15分で毒殺され、しかもその場面に帰蝶が頼純の妻として登場しているのが、どうにも話を端折った結果に見えて仕方がないのだ。

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加納口の戦いで信秀は稲葉山城岐阜城)の直下まで攻め込んだ


三河の緊迫化受けた帰蝶の輿入れ

 いずれにしても加納口の戦いで信秀は、合戦の名前の通り、稲葉山城のすぐ下まで攻め寄せるが、道三の逆襲にあって大敗する。ドラマでは油断したところを逆襲されていたが、無理攻めせず兵を引くことにしたところで道三の追い討ちにあったというのが史実のようだ。織田軍は信秀の弟、織田信康をはじめ、多くの武将を失った。頼純を排除した道三は再び頼芸との連携を模索するが、結局頼芸も再び道三によって追放される。

頼芸は再び信秀を頼るが、帰蝶を信長の嫁に迎えて道三と連携していた信秀は今度は手を貸さない。道三との連携、つまり帰蝶の輿入れは三河方面の情勢緊迫化を受けたもので、信秀の関心は北から西に移っていた。

 ちなみに頼芸はその後六角氏を頼って落ちのび、諸国を転々とし、天正10年(1582)、信長の武田攻めの際には甲斐に身を寄せていたところを見つかっている。

三河の戦いは竹千代争奪戦だった? 

 一方、三河侵攻のきっかけは、天文4年(1535)に徳川家康(1543〜1616)の祖父、松平清康(1511〜35)が家臣に斬られて不慮の死を遂げた事件「森山崩れ」だった。信秀は混乱に乗じて三河に攻め込み、安祥城(愛知県安城市)まで勢力圏に収めるが、この結果、東側から三河に侵攻してきた今川義元と対峙することになる。

 こうして起きた第一次小豆坂の戦いは痛み分けだったとみられるが、織田と今川に攻められた松平家の当主、広忠(1526〜49)はこの戦いの後に今川方につき、嫡男の竹千代(後の徳川家康)を駿府に送ろうとした。ところが護送を担当していた家臣の裏切りで、竹千代は織田家に送られてしまう。

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人質とされた竹千代(『三河風土記国立国会図書館蔵)

 竹千代を人質にした信秀は広忠に織田方につくよう説得したが実らず、広忠の岡崎城の攻略に乗り出す。義元は松平氏救援のため太原雪斎(1496〜1555)を大将とする援軍を派遣し、両軍が衝突したのが第二次小豆坂の戦いだ。

 戦いは今川軍が勝利し、織田方は安祥城まで敗走したが、勝利を収めた広忠が急死してしまう。松平家は次期当主の竹千代を織田の人質からとり返すため今川義元(1519〜60)に助けを求め、天文18年(1549)に今川・松平連合軍は安祥城を攻略し、城主の織田信広(?〜1574)を捕虜として、竹千代と交換することに成功した。

 信秀は帰蝶と信長の縁組で道三と同盟して北の脅威をなくし、三河でも巻き返しを図るが、重い病に侵されて死去する。ドラマでは信秀の死因は第二次小豆坂の戦いで受けた毒付きの流れ矢ということになりそうだが、記録では死因は流行病ということになっている。

信秀は好戦的な武将だったのか

 以上みてくると、信秀が非常に好戦的な武将にようにみえるが、これは戦国時代は当たり前のことだった。しかも尾張やその周辺の国では守護から戦国大名への権力交代、すなわち下克上が行われていたさなかで、いずれの国でも信秀をはじめ勢いがある新興勢力が台頭していた。

 守護大名駿河・今川氏も、義元が後継争い「花蔵の乱」を制したばかりで、領国拡張の野望に燃えていた。この時代の尾張周辺は、新興勢力が衝突する環境にあった。信秀は道三との同盟や竹千代の人質交換などの外交戦略もこなしている。信秀は当時の戦国大名の典型で、特に好戦的とは言えないのかもしれない。

 一見すると非常に好戦的だが、それは時代や環境の要請に過ぎず、実は緻密な外交戦略を考えているというのは、イランや北朝鮮の今の振る舞いにも通じるところがあるような気がする。相対する側にも、相手の動きの先手をいく緻密な戦略が必要になる。日本の外交は正直すぎるというけれど、戦国武将はそれでは生き残れなかったのだ。

 

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